ポケットに振動を感じ、美沙は携帯電話を取り出した。アルが、点滅しているライトに目を留める。
アームストロングは再びアルを羊達と共に乗せようとしたが、美沙とエドで徹底阻止した。
「黒尾から?」
「多分ね。乗ったのかな」
アームストロングが目をパチクリさせる。
「何だ? それは――」
「電話です」
言って、美沙は開き通話ボタンを押す。
途端に、切羽詰ったような黒尾の声が流れてきた。
「マルコーさんの封筒開けた? 何処!?」
「え、何。どうしたの? 汽車は乗れた?」
「いいから! 上りはもう直ぐ発車なの! どっち? 上りか下りかだけでも!」
「上りだと思うよ、セントラルだから――」
電話の向こうから、発車を告げる汽笛が聞こえる。
走っているのだろうか。黒尾の荒い息が電話口から聞えて来る。
「まさか、今からセントラル向かうつもり? リゼンブールは来ないの? あんた一人で研究書手に入れても、理解出来ないでしょうに」
「事情が変わったの! それで、場所は?」
「セントラルの国立図書館だけど――」
「ありがとっ」
言うなり、電話は切れた。
エドが怪訝な顔をして美沙に尋ねる。
「黒尾、セントラルに行ったのか?」
「うん。何か、事情が変わったって。凄い急いでるみたいだった。何かあったのかな……」
一同は押し黙る。
沈黙を破ったのは、美沙だった。
「まあ、後でまたちゃんと連絡来るだろうし。兎に角私達は、帰らないと。エドの腕直さない事には、あんた達動けないもんね」
「ああ」
「うん、そうだね」
美沙は、携帯電話をポケットにしまう。
このところ、不可解な行動ばかりを取り続けるもう一人の自分。そして不意に、先程の電話がまるで他者との会話のようだった事に気付いた。彼女は、自分自身だ。二人の間に、会話は殆ど無かった。口にせずとも、思う事は同じだったからだ。
確実に、何かが変わって来ている。
美沙は、流れていく車窓の風景に目をやった。
もう一人の自分が別個の意思を持ち、美沙の理解を超えた範囲で歩き回っている。何だか、薄気味悪いものを感じた。
No.12
「あ、いたいた。ラスト」
目の前の友人は、目を見開いていた。
黒尾はにっこりと笑って、手を振る。
「前、いい?」
彼女の前の空いている席を指し示し、尋ねる。
ラストは、いつもの涼しい顔に戻っていた。冷たい双眸が、黒尾を見上げる。
「――マルコーは話してしまったのね」
「違うよ。私にはその時間が無かった。ずっと後をつけていたあんたが、一番それを知ってるでしょ?」
「気付いていたの」
「そりゃね。そっちも、隠す様子も無かったじゃない」
恐らく、牽制の為だろう。駅に着くまでずっと、ラストは黒尾の後を尾行していた。マルコーの所へ聞きに行かないように。
だから黒尾も、ゆっくりと電話をする訳にはいかなかったのだ。ラストがどちらかの汽車に乗ってからでないと、電話をする事は出来なかったのだから。
「それじゃあ、二分の一の偶然に賭けたって訳?」
「んー、まあ……私達、二人いるしね」
黒尾は曖昧に返事をし、ラストの前の席に腰掛ける。
「何処まで乗るつもり?」
「セントラル」
短く答えた言葉に、ラストはじっと黒尾を見つめる。表情は無いが、黒尾が本当に研究書の在り処を知っているのか否か訝っているのだろう。
穏やかな田園風景の中を、汽車は走る。日は傾き、西の空は暗くなりつつある。
黒尾は窓枠に腕を突き、外を眺める。
「惜しいなーっ。反対側なら、綺麗な夕焼けが見えるんだろうけど」
「……」
「何か、久しぶりだよね。こうやって、ラストと一緒にゆっくり会うのって」
黒尾はラストを振り返り、笑いかける。
ラストはまだ油断無い瞳でじっと黒尾を見つめていたが、やがて溜息を吐いた。
「貴女、以前に鋼の坊やといるのを見られてるのだから、気をつけなさいよ。傷の男、何処に行ったか分からないんだから」
黒尾は目を瞬く。
そして、にっこりと笑った。
「ありがとね、ラスト」
ラストはふいと視線を外す。
「でも前に会ったのは東だし……指名手配犯が汽車乗ったりなんて出来ないだろうから、大丈夫だと思うよ」
「彼以外でも。釘を刺しておかないと、貴女、余計な事に首を突っ込むばかりするでしょう」
「そう? 結構私、慎重派だと思うけど」
「慎重派の人は、研究書手に入れようと競走したり、力も無いのにナンパ男に突っかかったりしないわよ」
「んー……まあ、その辺は……。でも、放っとく訳にもいかないじゃない?」
「ナンパの方は、他の人達は見てみぬふりしていたわよ」
黒尾は言葉に詰まる。ラストは更に追い討ちを掛けるように言った。
「それに、あそこで貴女が現れなくても、逃げる算段はあったわ」
彼女の事だから、強がりなどではなく事実だろう。だから尚更、言葉が出ない。
「態と暗がりに連れ込まれて、刺そうかと――」
「だったらやっぱり、助けに入って良かったよ!」
「まあ、お陰であの男は死なずに済んだ訳だものね。――それに、貴女と会えたもの」
黒尾は目をパチクリさせる。
そして、肩を竦めにっこりと笑った。
「――うん」
家中に、ウィンリィの絶叫が響いた。
美沙は耳を押さえ、目を瞬く。ウィンリィは言葉も出ない様子だ。ただ、震える指でエドの右腕を指す。正確には、腕のあった場所だ。当のエドは、悠々とした態度でソファに踏ん反り返り、コーヒーを飲んでいた。
「おお悪ィ、ぶっ壊れた」
「ぶっ壊れたってあんたちょっと!! あたしが丹精込めて作った最高級機械鎧を、どんな使い方したら壊れるって言うのよ!!」
「いや、それがもう粉々のバラバラに」
エドの言葉に、ウィンリィはよろける。
次の瞬間、エドの頭上にはスパナがあった。ウィンリィは、木箱に入れられたアルを振り返る。
「で、何? アルも壊れちゃってるわけ? あんたら、一体どんな生活してんのよ」
「いやぁ……」
アルはてへっと笑って誤魔化す。
続けて、ウィンリィはキッと美沙を見る。思わず、美沙は表情を引きつらせた。
「美沙まで大怪我したりしてないでしょうね? 黒尾はどうしたのよ?」
「この通り、私は元気ピンピンよ。黒尾はちょっと、他の用事出来たみたいで……」
「一人で、危ない事に首突っ込んでるんじゃないでしょうね?」
「平気平気。私、そこまで馬鹿じゃないって。私一人じゃ危険に太刀打ち出来ないって、ちゃんと自覚してるから」
それでもまだ、ウィンリィは疑わしげな視線を向けていた。早く黒尾からの詳細連絡が来て欲しい。ウィンリィは、美沙達も旅をすると言う事に反対だった。美沙達は、錬金術なんて高度な技術を使う知識も才能も無い。エドのリハビリ中にアルから体術を教わったが、それでもやはりエドやアルに比べれば、戦力として心許無い。何とか貫き通して旅をしているが、美沙達が怪我をしようものならウィンリィの怒りは凄まじい事になる。
「――で、その賢者の石の資料とやらを手に入れる為に、一日も速くセントラルに行きたいって言うのかい?」
「そう。大至急やって欲しいんだ」
ピナコはエドの足の長さを測る。小さい小さいと言えども、どうやら一応身長は伸びているようだ。ウィンリィが前回測った時の身長を口にし、エドは慌てて掻き消す。
ピナコは、煙管でカンカンとエドの足を叩いていた。
「足の方は元があるからいいとして、腕は一から作り直さなきゃならんから……」
「ええ? 一週間くらいかかるかな」
ピナコの言葉に、エドはやや焦るように言う。美沙もエド同様、早くセントラルへ行きたかった。以前彼女一人が出稼ぎに行った時とは違い、最近は長くもう一人の自分と離れるのが怖い。これ以上別行動を続けていると、もう一人が完全に別の人となってしまいそうな気がしていた。
ピナコは煙管を吸い、ふっと煙を吐く。
「舐めんじゃないよ。――三日だ」
言うなり、エドの足を外しスペアに付け替える。
美沙は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。この空の下、もう一人の自分は今どの辺りにいるのだろう。何故、セントラルへ行かなければならなくなったのだろう。
セントラルに着けば、携帯電話に連絡が入るだろう。そうは思っても、胸騒ぎがしてならなかった。
「ばっちゃん、お風呂掃除終わったよ」
「ああ、ありがとう美沙」
言って、ピナコは席を立つ。
アームストロングが、美沙に尋ねた。
「美沙も、この家に住んでいるのか?」
「ええ。最近はあの兄弟と旅してるから、住んでいるかと言うと微妙ですけど……でも、帰る家はここですね。旅出る前は、兄弟の家に寝泊りする事も多かったですけど……。
私、エドがリハビリ中だった頃に拾われたんです。それからこの家に居候させて頂いて……。感謝してます、彼らには――」
目が覚めたのは、柔らかなベッドの上だった。患者用の寝台。決して贅沢な物ではないが、それまで固い地面やベンチで眠っていた美沙にはとても柔らかで温かく感じられた。
隣の寝台に、もう一人の自分がいた。美沙と同じように、上体を起こし自分を見つめていた。
やがてウィンリィとアルが部屋に来たが、何と言っているのか解らなかった。
最初の数日、美沙はずっと塞ぎこんでいた。話しかけられても言葉が解らず、首を傾げるだけ。夜は、故郷を思い、しかしそこに居場所は無い事を思い出し、人知れず泣いた。どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけない。どうして、自分だけが。そう思っていた。美沙は、自分の悲劇に酔いしれていたのだ。
エドのリハビリ姿を見て、美沙は変わった。
「コトバ、教えて」
ある日、美沙は食事の席で彼らに言った。
彼らは笑顔になり、美沙達にアメストリスの言語を教えてくれた。エドのリハビリがある為、一緒にいるのはアルが尤も多かった。ウィンリィやピナコも、リハビリや仕事の合間を縫って教えてくれた。言葉を覚えながら、美沙は家事の手伝いもするようになっていった。美沙の作ったパンは、とても好評だった。アルと一緒に、エルリック家の方の掃除も行った。
何日か、何週間かが過ぎ、エドのリハビリも落ち着いて来た頃だった。ある朝、エドは美沙達を順に指し言った。
「お前、黒尾! お前、美沙な!」
二人の黒尾美沙は目を瞬いた。
エドは壁に手をつき、ふんぞり返る。
「区別付かないと、何かと不便だろ。服も、同じ方で統一した方がいいんじゃねーの? 『緑の服の〜』とか言っても、日付変わって着替えるとどっちがどっちか判らなくなっちまうしよ。例えば、黒尾は寒色、美沙は暖色とかさ」
美沙達は顔を見合わせた。
そして、ぱあっと明るい表情になった。
「エド、頭いい!」
二重唱で叫ぶ。
この日以降、二人は同一の行動を取ってしまう事がぐっと少なくなった。行動を取るときに、主語を入れれば良い。「美沙の方が言おう」「黒尾がこれをしよう」――そう考えるだけで、日常生活は一気に平常なものへと変わって行った。
「異世界……!?」
言葉を覚えた美沙は、エド、アル、ウィンリィ、ピナコの四人に事情を話した。
自分がいたのは、日本と言う国だと言う事。その世界には、この世界のような錬金術など無かった事。アメストリスも無かった事。西暦は二〇一〇年。全くの別世界であった事。携帯電話の存在は、話を信じてもらう確固たる決め手となった。
突拍子も無い話に、当然、四人は目を丸くした。
「……私は、元の世界に帰りたい。手掛かりは殆ど無いけれど……もう一度、あの扉の所に行ければ――」
「扉?」
話に食いついたのはエドだった。二人は頷く。黒尾が説明した。
「トラックにはねられて――こっちの世界の街中で目を覚ます前に、妙な空間にいたの。そこには、もう一人の自分がいて――」
エドの目が見開かれて行く。
「美沙……黒尾……お前ら、こっち来たのいつだって言った……?」
アルも何かに気付いたようだった。ハッとしたようにエドを振り返り、再び美沙達を正面から見据える。
「十月二十四日」
答えた日付に、ウィンリィとピナコの表情も変わった。
ウィンリィが困惑気味に言う。
「――どう言う事? 何か関係があるの? ただの偶然?」
「判らない……」
アルが呟くように言った。
エドは、強張った表情で俯いていた。生身の拳も、リハビリ最中の拳も、双方固く握られている。エドは顔を上げた。金色の双眸が、美沙達二人を捕らえる。
「――俺達が元の身体に戻る方法と、お前らが元の世界に帰る方法は、同じかも知れない」
「……え?」
二人は目をパチクリさせた。
エドとアルが人体錬成をした事は、ピナコから聞かされていた。その代価として、エドは足を、アルは全身を失ったのだと。悲惨で残酷な話だった。死した母親を求めた結果の悲劇。しかし彼らは、それをも乗り越え前へと進もうとしている。失った身体を取り戻そうと、エドは錬金術の国家資格を得ようとしている。
その為に何をするのか、詳細はよく知らない。けれど、元の身体に戻る事と、元の世界へ帰る事にどんな繋がりがあると言うのだろう。全くの別物に思えてならない。
「二人が見た物は、俺が人体錬成の時に見たのと同じ物かも知れない」
それが、どんな意味を持つのか。
ショウ・タッカーに指摘されるまで、その含意から美沙達は顔を背けていた。
2010/01/25