「ちょっと、おっさん」
 女性の肩を抱くようにして、路地へと入ろうとする男。その男の腕を、小さな細い腕が掴んだ。
 見たところ、まだ成人に達していないように見える少女だった。見慣れない顔立ちは、シンの血筋だろうか。背丈も決して人より大きい訳でもなく、ラストと同じか又はやや小さいように思えた。
 自分より遥かに図体の大きい男を、彼女は真っ直ぐな瞳で正面から見据えていた。
「彼女と、どんなご関係ですか? 嫌がっていたじゃないですか」
 語調こそ丁寧だが、棘がある。
 男は乱暴に彼女の肩を押し退けようとした。しかし、彼女は足を踏ん張り動かない。
「退け。恋人同士だ。お前が口出しする事じゃない」
「嘘! 無理矢理引っ張ってたの、見ましたよ!」
「五月蝿い!」
 今度は強く押した。彼女は道路に倒れ込む。
 人目を引いたが、男はラストを連れて離れようとした。しかし、彼女は直ぐに立ち上がった。
「キャシーを返して!」
 叫び、男の腕に縋る。ラストの肩から男の腕が離れた。
 やはり彼女は直ぐにまた地面に叩きつけられたが、また立ち上がった。どうやっても敵わない。頭を鷲掴みにされ、直ぐにまた叩きつけられる。けれども、男としてもこれは人目を引き過ぎた。
「なあに、あれ?」
「友達をさらおうとしてるみたいだよ」
「ただの修羅場じゃないのかい」
 聞こえて来たひそひそ声に、男はぎくりとする。結局、ラストを諦めその場をそそくさと立ち去って行った。
 身体を起こした彼女を、ラストは呆れた目で見下ろした。
「……誰がキャシーですって?」
「良かった、無事だね」
 そう言って、彼女は笑った。切れた唇が引っ張られ、初めて痛みに気がつく。
 ラストはハンカチを差し出す。
「呆れた人ね。本当に恋人同士だったら、どうするつもりだったの?」
「違うって事ぐらい、解ったもの。最初、嫌がっていたでしょ? そこの店から見ていたの。直ぐに諦めちゃったのか、俯いて連れて行かれてたけど……ああ言うのは、兎に角周りに助けを求めた方がいいよ」
 ラストは答えず、溜息を吐いただけだった。
 騒ぎを起こすよりも、物陰でそっと処分した方が都合が良かったのに。
「ねえ、何処なら会えるかな?」
「え?」
 突然持ちかけられた会う約束に、ラストは戸惑う。
 彼女はやはり、笑っていた。
「ハンカチ、洗って返したいから。ありがとね」
「――ソラリスよ」
「え?」
「名前。またキャシーなんて呼ばれたくないもの」
 どうして仕事のみに使う偽名を名乗る気になったのか、自分でも解らなかった。人間などと馴れ合うつもりも、さらさら無いと言うのに。
 けれど、彼女の明るい声でその名を呼ばれると、妙な感情が沸き起こった。嬉しかった、のかも知れない。
「私は、黒尾美沙。黒尾って呼んで。――よろしくね、ソラリス」





No.13





 黒尾からの連絡が入ったのは、翌日の夜になってからだった。
 突然鳴り出したバイブ音に、美沙は慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし? 黒尾?」
 階段の方を気にしながら、美沙は早口に尋ねる。夕飯の支度が出来、ウィンリィにも声を掛けに行ったばかりだった。
「セントラル着いたから、連絡しないとと思って。そっちは、何日ぐらいで来られそう?」
「三日で終わるって、ばっちゃんが。――それで? 何があったの?」
 先回りして、セントラルの資料を処分しようとしている人がいる。
 黒尾は短く、そう伝えた。
「……何、それ。尾行けられてた……? あっ、マルコーさん、探されてたから……!?」
 美沙はハッと食卓を振り返る。
 エドは牛乳と睨めっこし、アルやアームストロングから世話を焼かれていた。アームストロングは、軍人だ。でも彼は、中央へ伝えるつもりは無いと言った。建前だったのだろうか。
 否、そんな人には思えない。それではやはり、別の軍人が尾行していたのか。
「何が目的なのかは、分からない……。でも取りあえず、その人と同じ汽車では帰って来たから。直ぐに図書館向かったんだけど、私身分証明書無いでしょ? エドと一緒じゃないと、表から入るのは厳しくてね……」
 言い回しで解った。やはり、自分と彼女は同一人物なのだと思う。
 表からは入れない。ならば――
「見つからないようにね。気をつけて」
「当然」
 電話を切ろうとした美沙は、今し方入ってきたウィンリィの大きな声で留まった。
 ウィンリィは真っ直ぐに美沙の所まで駆け寄る。
「黒尾から!? 大丈夫なの?」
 美沙はへらっと笑った。
「大丈夫、大丈夫。ただ、物取りに行っただけだって。私達も、エドの腕が治り次第直ぐ行くつもりだしね」
「でも、どうして黒尾だけ態々……」
「私は、気付かないで乗り込んじゃったの。後はただの効率の問題だよ。二人いるんだもん、別行動した方が早いでしょ?」
 ウィンリィは黙り込み、手を差し出す。
 美沙は、大人しく携帯電話を彼女に渡した。
「黒尾? 危険な事は、絶対にしないでね! 約束したでしょ?」
 大丈夫。そう言って、黒尾は笑っているだろう。内心では、約束は守れないなと思いながら。
 美沙自身でなくても、その本音は読み取れたらしい。
「――本当にしない? 嫌よ、私。もうあんな……」
 あれは、エド達との旅を始めて間も無い頃だったか。
 美沙が大怪我をしたのだ。目の前で起こった騒ぎに、一人で首を突っ込んでいって。あの時は、エドやアルさえも、美沙達が旅を続ける事を渋った。
 でも、大丈夫だ。美沙はもう、あの頃のような無鉄砲では無いし、あの頃に比べれば自分の身を守れるくらいには強くなった。
 自分の力量も把握している。悔しいが、戦闘となるとエドやアルに頼った方が良いのだ。それも、分かっている。
 だから、無謀な事はしない。
 同じ事を、電話の向こうの美沙も言っているらしかった。それでも、ウィンリィはまだ心配気だ。
「だってあなた達、誰かが危険だったら、自分の危険も省みなくなるじゃない……」
「最近はちゃんと、堅実的に考えて動くようになったよ」
 思わず、美沙は口を挟んだ。
 黒尾は電話を切ったらしい。ウィンリィは口を尖らせ、携帯電話を美沙に返す。
「それでも、人質がとられたら? 見境無くなっちゃいそうな気がしてならないんだけど」
「そこまで取り乱す相手なんて、貴方達ぐらいだよ。数少ない知り合いのマスタング大佐達も、いるのは東方司令部。セントラルで、この一日の内にそんな友達を作っていたら、話は別だけどね」
 言って、美沙は笑った。
 黒尾に、美沙の知らない友人がいるだなんて、思いも寄らなかったのだ。





 闇に乗じて、影が一つ。影は塀を乗り越え、ゆっくりと地面に降り立つ。辺りを確認すると、身を屈めて建物の傍まで走った。壁に張り付くようにして、角の向こうを確認する。
 少し先に人影が見え、彼女は慌てて身を引いた。
「しーっ」
 黒尾は、自分に言い聞かせるように人差し指を立て口パクで呟く。
 建物の陰に身を潜め、耳を澄ます。警備の者は、正門の方へと去って行った。
 タタタッと角を回り込み、辺りを確認すると通気口に手を掛けた。ぐらついている格子を、力いっぱい引っ張る。昼間の内に見つけておいた侵入口だ。
 格子は大きな音を立てて外れた。ぎょっと辺りを見回す。遠くから幽かに人影が聞こえた。
 黒尾はそそくさと通気口に潜り込んだ。急いで前へと前進する。
 後ろから追って来る気配は無かった。どうやら、見つからずに済んだらしい。ほっと息を吐き、更に前へと進む。
 やがて出たのは、何処かのトイレだった。辺りを確認しながら、廊下に出る。光源は窓の外から差し込む月明かりしか無く、館内は闇に包まれていた。
「ま、こんな時間だしね……」
 黒尾は、人のいない玄関ホールや受付を見て回る。膨大な資料。一つ一つ見て回るのは、相当骨が折れる。せめてもの手掛かりとして、分類の配置だけは見ておきたい。
 受付の傍にあった館内図を確認し、研究資料のある部屋へと黒尾は向かった。
 部屋の扉を開け、黒尾は思わず大きく息を吐いた。この中から、マルコーの資料を探し出さねばならない。
 ――人の気配は無い、か……。
 きょろきょろと辺りを見回しながら、黒尾は思う。
 すると、ラストよりも早く辿り着けたのだろうか。それとも、彼女は昼間に捜したのだろうか。先に見つけられていなければ良いのだが。
 錬金術関連の一角で、黒尾は立ち止まり本棚を見回す。
「さーて……探しますか」
 小さく呟くと、本を一冊、棚から抜き取った。

 どれぐらい経っただろう。
 黒尾は、妙な物音に振り返った。引き抜いた本は、また関係の無い人の物。それを元の位置に戻し、目印に携帯電話のストラップを外して挟む。
 錬金術資料の一角を離れ、音のする方へとそろそろと向かう。見回りでも来てしまったのだろうか。それにしても、この音は人の足音では無い。何か唸るような音と、パキパキと言う家鳴りのような音。時折、ドォンと低く響く大きな音が聞こえる。
 部屋の戸口まで近づいて、黒尾はハッと息を呑んだ。流れて来たのは、焦げたような臭い。――ホーリングの所と同じ。
 慌てて駆け出し、扉を開ける。
 目に映ったのは、廊下の奥から迫ってくる黒煙。右も、左も、塞がれてしまっている。この部屋は建物の中央部。窓も無い。
「嘘……」
 ゴオッと煙が前進する。その奥から続いてくる激しい炎。
 思わず、黒尾は炎を扉の外に閉め出した。
 火から逃げるようにして、扉を離れる。壁伝いに歩くが、何処も彼処も本棚ばかり。出られる穴など、何処にも見当たらない。
 バキバキと言う激しい物音に、黒尾は身を竦ませた。恐々と背後を振り返る。黒い煙が、ゆらゆらと漂って来ていた。
 閲覧用のスペースへ、黒尾は走る。周囲は紙と木ばかり。炎は、あっと言う間に部屋全体へと回る。
 どうしよう。
 八方塞だ。ここも、直に炎に包まれる事だろう。
 ――ずっと、ここにいる訳にはいかない。
 黒尾は立ち上がった。
 この部屋から出なくてはいけない。火元に向かう事になるかも知れない。それでも、ここにいては焼け死ぬだけだ。
 燃え盛る炎。足が竦む。本棚は火に包まれ、部屋の其処彼処に火達磨が居座っている。
 震える膝を叱咤し、床を蹴る。
 左右からの熱風が黒尾を襲う。視界は煙で霞み、息が苦しい。四方は炎の燃え盛る音に包まれ、熱気と相まって耳が麻痺しそうだ。
 ――扉……。
 確か、この方向にあった筈。しかし炎が行く手を遮り、真っ直ぐそちらへ向かう事は出来ない。
 火達磨を回り込み、戸口を目指す。
 ――廊下に辿り着いたところで、廊下全体に炎が広がっていたら?
 浮かんできた嫌な考えを、黒尾は己の頬を叩いて追い出す。後ろ向きに考えたって、仕方が無い。そこしか、出口は無いのだ。
 空気が熱い。間近に迫る火が怖い。煙が目に痛い。息が詰まる。
 ゴオッと頭上から音がした。振り返った瞳に映るのは、落下してくる炎に包まれた物体。
 足がその場に凍りつく。逃げられない――
 ばらばらと辺りに音が飛び散る。何も、降って来ない。黒尾は恐る恐る腕を頭の上から外し、目を開けた。
 そこに立つのは、黒いドレスに身を包んだ黒髪の女性。
「ラスト……!」
 黒尾は、親しい友人の名を呼んだ。
 ラストは長く鋭い爪を元の長さへと戻す。そして、くるりと背を向けた。
「お喋りしているような暇は無いわ。行くわよ」
 炎の中を歩いていく友人の背中を、黒尾はぽかんと見つめる。
「早くしなさい」
 黒尾はぱあっと顔を輝かせ大きく頷くと、ラストの後を追って行った。
 塞がれた道は、ラストが爪で横の壁や扉を切り開いて行く。黒尾はただ、彼女の後について行っていれば良かった。
 炎は辺りを取り巻き、所によっては火の粉が降って来る。前を行くラストがそれを浴び、黒尾は顔を青くして駆け寄る。
「ラスト! 大丈――」
 黒尾は言葉を途切れさせた。
 あれだけの火の粉を被っておきながら、ラストの肌には何処にも火傷の後が無かった。一瞬見えた赤い光は、炎のそれとは違う。
「え……」
「心配しなくても、大丈夫よ。
言ったでしょう? 私達は、貴女達が化け物と呼ぶような存在だって」
「……」
 何と返して良いのか判らなかった。化け物なんかじゃない。そうは思っても、黒尾とは違うのは明らかだった。
 リオールでラストと一緒にいた男。黒尾を文字通り食そうとしたあの男は、何だったのだろう。エセ教祖も、彼に食べられていた。そして、マルコーを脅し研究資料を横取りしようと――
「あっ!! 研究書!」
 叫び、振り返った黒尾の喉元に、鋭利な爪が回り込んだ。
「……便利な爪だねぇ」
「行っても無駄よ。もう灰になってるわ」
「でも……!」
「諦めなさい」
 ラストは瞳に、強い光を湛えていた。気圧されるように、黒尾は黙り込む。
 物惜しそうに背後の炎を振り返り、それからハッとラストを見た。……あまりにも、タイミングが良過ぎる。どうして直ぐ、気付かなかったのだろう。
「まさか……この火を放ったのって、ラストなの?」
 振り返ったラストは、目を見開いていた。それから、ふっと嘲笑を浮かべる。
「気付いていなかったの?」
「それじゃ、やっぱりラストなんだ!? たった一つの研究書のために、こんな――」
 途端、黒尾は強く突き飛ばされた。
 ガラガラと音を立て、今し方黒尾のいた所に天井が崩れ落ちる。
「……ッ。ラストおおおおぉぉぉ!!」
 身を起こし、瓦礫の山に駆け寄る。火が点いていようと、関係無かった。崩れた床の残骸を、必死になって拾い退ける。
 ラストは、黒尾の身代わりになったのだ。
「ラストぉ……ラスト、ねぇ……返事してよ……!」
 突き飛ばされた時に見た、一瞬の表情。崩れた天井に押し潰された時。
 彼女は化け物なんかじゃない。
 一緒だ。
 黒尾達と、一緒なのだ。ただ、ちょっと頑丈だというだけの話。特殊な能力を持つ者なんて、この世界には幾らでもいる。黒尾からすれば、錬金術さえもまるで魔法のようなのだから。
 燃え滾る木材を鷲掴みにし、後ろへ放る。焼け爛れた手は、感覚を失っていた。
 ふと、風が黒尾の顔を撫でた。
 炎の中の残骸に亀裂が走り、次の瞬間には粉砕する。中から、所々に紅い光を帯びたラストが立ち上がった。
 黒尾は、安堵の息と共にその場にへたり込む。
「ラスト……」
「何よ、情けない顔して……」
 ラストの視線が、黒尾の手に向けられる。
「……本当、貴女って人は理解に苦しむわ」
 ラストは瓦礫の山を乗り越え、先へと歩く。
「……ねえ、ラスト」
「もう無駄話は沢山よ。また同じ目に遭うつもり?」
 黒尾は立ち上がり、スタスタと歩いて行くラストの方へと駆け寄った。そのままの勢いで、後ろから飛びつく。
 ラストは前へとバランスを崩し、何とか持ちこたえた。
「何よ、いきなり――」
「ありがとう、ラスト」
 黒尾はラストの横に並び、彼女の顔を覗き込んだ。
「ラストは私の事理解に苦しむって言ったけど、ラストだって一緒じゃない? 身を挺して私を庇ったりして」
「身を挺するも何も、私ならこの程度で死んだりしないわ」
「でも、痛みはあるでしょ?」
 ラストは黙り込む。
 突き飛ばされた時に見た、一瞬の表情。苦痛に歪む顔。
「先に行って火の粉を被りながら道を開いてくれてるのも、本当は熱かったんでしょ? それなのに――」
「馬鹿な事言ってないで、早くここを出るわよ」
 ラストはふいとそっぽを向き、足早に進んで行く。黒尾はフッと微笑み、その後に続いた。
 ラストが火を放ったなら、そのまま帰ってしまえば良かったろうに。邪魔をしようとする黒尾など、研究書もろとも焼き殺してしまえば彼女達には都合が良いだろう。
 けれど、ラストは館内に現れた。
 恐らく、黒尾の身を案じて。
 ――一緒、だよ。
 何者だろうと、関係無い。ラストは、黒尾の親友だ。
 例え、この先何があろうとも。


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2010/05/26