通りの掃除を終え、黒尾は店に入った。中で構えているのは、ふくよかな女性。
「店前も終わりました、マダム」
「ありがとう。今日で最後だっけ?」
「はい。昼頃、皆着くそうなので。突然なのに、雇ってくださってありがとうございました」
「なあに、構やしないさ。久しぶりに会えて良かったよ。中央に来た時は、いつでも寄って行きな。辞めてから、全然顔見せなかったじゃないか」
マダム・クリスマスは煙草に火を点ける。
黒尾は苦笑して肩を竦めた。
「すみません。東とか、てんで違った方へ行っていたものですから……。
本当、マダムには感謝しています。四年前も、世間知らずの私を快く雇ってくださって」
四年前、言葉を覚えた後に勤め先としてマスタングに紹介してもらったのが、ここだった。客の対応よりも、掃除や仕入れの荷物対応と言った雑務が中心だ。
マダム・クリスマスに別れを告げ、店の外へ出る。手を翳して青空を見上げ、黒尾は溜息を吐いた。
中央図書館第一分館は燃えてしまった。既にこちらへ向かっているエド達。漸く掴みかけた手掛かりが、目の前で消えてしまったのだ。これから、一体どうすれば良いのだろう。
No.14
「ティム・マルコー……えーと……ティム・マルコーの賢者の石に関する研究資料……やっぱり目録に載ってませんね。本館も分館も新しく入った物は必ずチェックして目録に記しますからね。ここに無いって事は、そんな資料は存在しないか、あっても先日の火災で焼失したって事でしょう――って、もしもし?」
エドは魂が抜けたような顔をして座り込んでいた。アルも、表情こそ無いものの落ち込んでいるのがありありと分かる。
美沙は、隣に立つ分身を肘で突く。
「直ぐ行かなきゃいけない理由が出来たって言ってたよね? それって、これ? 放火止められなかったの?」
「まさか、丸ごと火をつけるとは思わなくって……」
黒尾も、目の前で手掛かりを逃してしまった事に落ち込んでいるようだった。それ以上責められず、美沙は足元に視線を落とす。
漸く近付いた、兄弟が元の身体に戻る手掛かり。帰る為の手掛かり。
それを逃してしまったショックは大きいが、同時にホッとしている自分がいる。仮に、賢者の石が手に入り元の世界に帰れたところで――美沙の居場所は、そこにあるのだろうか。
――最低。石が無きゃ、この子達だって元に戻れないのに。
美沙は心の中で自分を叱咤し、帰ろうとする三人の後に続いた。
「あ! シェスカなら知ってるかも。ほら、この前まで第一分館にいた……」
「ああ!」
司書達の会話に、四人は足を止め振り返る。
受付の女性が言った。
「シェスカの住所なら、調べれば直ぐ判るわ。会ってみる?」
「誰? 分館の蔵書に詳しい人?」
「詳しいって言うか……あれは、文字通り『本の虫』ね」
話しながら、女性は苦笑していた。
教えて貰った住所へと一行は向かったが、戸を叩いても返答は無かった。明かりは点いている。
そっと入ってみると、中は本で埋め尽くされていた。文字通り山が出来ていて、家具も人も見当たらない。
「シェスカさーん! いらっしゃいませんかー?」
「おーい!」
「とても人が住んでる環境には思えないけど……」
呟き、アルは立ち止まった。
美沙はきょとんと振り返る。
「どしたの、アル? 先に――」
言いかけ、美沙も足を止めた。声が聞こえる。
声は、本の山の下から聞こえた。
「うわあああああっ!?」
「兄さん、人っ!! 人が埋まってる!!」
「掘れ掘れ!!」
一同総がかりで本の山を掘り、漸く声の主を救い出した。大きな黒縁眼鏡をかけた、短い茶髪のいかにも大人しそうな若い女だった。
彼女がシェスカ。国立中央図書館第一分館に勤めていた女性である。
「はい、覚えてます」
エドに研究書の存在を問われ、彼女は少し考えた末にはっきりと頷いた。
「活版印刷ばかりの書物の中で珍しく手書きで、しかもジャンル外の書架に乱暴に突っ込んであったので、よく覚えてます」
「……本当に分館にあったんだ……て事は、やっぱり丸焼けかよ……」
四人は一斉に肩を落とす。
美沙とて、例に漏れなかった。エドとアルの身体を取り戻す手段。美沙が元の世界に帰る手段。帰った先がどうのこうのとあっても、やはり振り出しに戻るのはきついものがある。帰ったら、という悩みも帰れる手段があってこそ思うもの。
ふらふらと帰っていこうとした一行に、シェスカは尋ねた。
「あ……あの、その研究書を読みたかったんですか?」
「そうだけど、今となっては知る術も無しだ……」
「私、中身全部覚えてますけど」
一瞬、その場の空気が固まる。
四人は一斉に、食いつくようにシェスカの所まで駆け戻った。
「は!?」
「いえ、だから……一度読んだ本の内容は全部覚えてます。一字一句間違えず。時間かかりますけど、複写しましょうか?」
「ありがとう、本の虫!!」
五日後、シェスカは本当に研究書の全文の模写を完成させた。書き上がったのは、ティム・マルコー著の料理研究書『今日の献立一〇〇〇種』――暗号によって書き綴られたものだ。エドとアルの話によると、錬金術の研究書とは総じてそういうものらしい。エドの場合は、旅行記の形で書き付けてあるのだとか。
「それで、もう十日か。なかなか大変なもんなんだね、錬金術ってのは」
マダム・クリスマスはカウンター内で開店の準備をしながら言う。
黒尾が苦笑した。
「すみません、やめるって言ったのに、今度は人もお世話になっちゃって。早く解けるといいんですけど」
「いや、私は助かるから構わないよ。店の子達は夜の出勤だからね。昼間に店を整えてくれるんだから、こんなに楽な事はない。昼間他に用があっても、あんた達なら安心だしねぇ。あんた達が働いてる時は早く帰れるって、店の子達も喜んでるんだよ。いっそ、ずっと働かないかい?」
美沙と黒尾は、顔を合わせて笑った。美沙が雑巾を片付けながら言う。
「出来る事なら、私達もそうさせて頂けると嬉しいんですけど。でも、一所に留まってる訳ではないですからねぇ」
「故郷に帰るために、色々調べてるんだもんね。早く、暗号が解けるといいね」
「……ええ」
美沙達は仕事を追えてホテルに帰宅する。エドとアルの部屋へ向かったが、ノックをしても何の反応も無かった。いつもなら、エドが「腹減った!」とか叫んで勢いよく飛び出してくるというのに。
もう一度、ノックをする。ややあって、大人しく扉が開いた。
「……あ……美沙……黒尾……」
エドは呆けたように呟く。美沙は首を傾げる。
「どうした? あんまり解けないもんだから、バテちゃった?」
「私達も手伝えるといいんだけどねぇ……錬金術はさっぱりだし」
黒尾が言って、手にした買物袋を掲げる。
「今日は帰るの遅くなっちゃったからさ。買って来た。食べる?」
「あー……後で食うよ……」
エドは受け取る。黒尾とも、美沙とも、眼を合わせようとしない。
「じゃあ、おやすみ」
押し出されるようにして、二人は部屋から出て行った。廊下に佇み、鍵の閉まる音を聞く。
何か、あったのだ。暗号を解読していた時に、何かが。
翌朝出かける時にも隣の部屋に寄ってみたが、二人共閉じこもったまま出て来ようとはしなかった。図書館へ行く準備をしなくても良いのかと尋ねても、帰って来るのは曖昧な返事だけ。
結局、その日は一日中、部屋に閉じ篭っていたらしかった。
「ロス少尉、ブロッシュ軍曹、何か知ってるんじゃありませんか」
護衛を続ける二人は、時折憐れむように兄弟の泊まる部屋に視線を向けていた。美沙の言葉に、二人はあからさまに焦る。
「美沙さん達、今日はお仕事は……」
「昨日までで切り上げさせていただきました。お二人とも、何か私達に隠していますよね?」
ブロッシュはあわあわと視線を泳がせる。
マリアが、取ってつけたような笑顔で言った。
「何も、そんな事は……。暗号が解けなくて、お疲れなんじゃないでしょうか。一週間以上も、根をつめていた事ですし……」
「暗号、もう解けてるんじゃないですか?」
黒尾が静かな声で問う。マリアとブロッシュの表情は、固まった。
美沙は軽く溜息を吐く。
「……やっぱり。あの二人が、暗号も解けない状態で疲れたからって放り投げるはずがありません。
一体、何があったんです? 教えてください。二人共、私達には話してくれなくて……またあの二人で抱え込んじゃって……迷惑かけないようにと思ってるのかもしれない。でも、私達は頼って欲しいんです。何の力にもなってやれない、相談もしてもらえないのが不甲斐無くて……!」
「美沙さん……」
「だから、どうか教えてください。二人に一体、何があったんですか?」
ブロッシュはちらりとマリアに視線をやる。マリアは、首を振った。
「……申し訳ありませんが、話せません」
「そんな! どうか――」
「エルリック兄弟はいるかね?」
その場に現れたのは、アームストロングだった。
黒尾が頷き、二人が閉じ篭ったまま出てこない事を話す。
「何? エルリック兄弟は今日もまた部屋に閉じ篭っていると?」
マリアが頷く。
「ええ。今日は食事もまだのようです」
「むう……疲れが溜まっていたのだろうか。このところ、根を詰めておったようだしな」
「……それじゃあ少佐は、何もお聞きじゃないんですね」
「む? 何の話だ?」
「相談を受けた訳じゃないんですけど……二人とも、ただ疲れたんじゃなくて、何かあったんじゃないかと思って……」
「何を話しているんですか?」
黒尾が、マリアとブロッシュに問うた。美沙とアームストロングも二人に注目する。二人は慌てて手を振った。
「いえ、なんでもありません」
途端に、アームストロングは上半身裸になった。左右の拳を突き合わせ、上腕筋やら胸筋やらを盛り上げる。
「あやしい」
迫り来る筋肉に、二人は遂に白状した。それは、思いも寄らなかった絶望的真相だった。
賢者の石の材料は、生きた人間。
そんな物、使えるはずがなかった。エドの手足やアルの身体を取り戻すにしても、黒尾美沙が元の世界に戻るにしても、他の人々を犠牲にしてまで行うような事ではない。
アームストロングの言葉をきっかけに、エドはある事に気が付いた。マルコーの言っていた言葉だ。真実の奥の更なる真実――つまり、まだ隠された何かがあるのではないかと。
そうして地図を広げ、辿り着いたのが第五研究所。今では廃屋となっている研究所だ。隣には、刑務所。材料にも困らない、賢者の石の研究には格好の場所である。研究所の責任者はスカーの手で殺されている。刑務所も関わっているとなれば、政府も関わっているかもしれない。
軍の上層部については、アームストロングが探りを入れてくれる事になった。エドとアルは「大人しくしているように」と念を押され、その場はお開きになった。
しかし、それで大人しくしているようなエドとアルではない。夜になると、美沙は黒尾を引っ張って隣の部屋を訪れた。美沙達が出た後に鍵をかけていなかったようなので、そのまま部屋へと入って行く。
「あ゛」
エドは上着の留め金に手をかけながら、アルは窓を開けながら固まった。
美沙は、二人に詰めよる。
「エドーアルー? 今、一体何をしていたのかなあ〜?」
「いや……ちょっと、暑いなって……」
アルがしどろもどろに言う。エドが食って掛かった。
「美沙達こそ、何の用だよ! もう寝たのかと……」
「私達、今日はこっちで寝るから」
「はあっ!?」
二人は素っ頓狂な声を上げる。
黒尾はバスタオルに包んだ一式を持って、備え付けのバスルームへ向かう。
「シャワー借りるよ〜」
「ちょっ、ちょっと待て!! こっちで寝るって何だよ!?」
構わず、黒尾は部屋を出て行った。美沙は腕を組み、ふんぞり返る。
「あんた達、今夜第五研究所に行こうと考えてるでしょう」
ぎくっと二人は身を竦ませた。
「……やっぱりね。アームストロング少佐にも、言われたでしょう。軍上層部が関わっているとなれば、これはあんた達二人が単独で解決出来るような単純な問題じゃなくなる。現場に突っ込んで行くなんて、危険の極み。ここは大人しく言うことを聞いていなさい」
二人は押し黙る。バスルームの方からは、シャワーの音が聞こえていた。
美沙は窓まで歩いて行き、それを閉める。
エドが、ぽつりと言った。
「……俺達がこんな身体になっちまったのも、俺達自身のせいだ」
美沙は窓に背を預け、エドを見つめる。
エドは真っ直ぐに、美沙を見据えていた。
「だから、俺達の責任で元の身体に戻る方法を見つけなきゃならねー」
「元の身体に戻る方法は、ね。第五研究所には、その解決の手がかりもあるかもしれない。でも、そこにあるのはそれだけじゃない。せめて、アームストロング少佐の報告を待ちなさい」
美沙は暫し、エドとアルと睨み合う。二人が何と言おうとも、行かせる気は無かった。――もう、あんな思いはしたくない。二人の命が狙われているのに、何も出来なくて。ひたすら町中を探し回って。どんなに恐ろしかった事か。
二人は観念し、ふいと視線を外した。そしてそのまま、長椅子に座り込む。美沙は満足気に微笑むと、自分もその隣に腰掛けた。
「――良かった。解ってくれて」
エドはムスッとしたまま、答えない。アルには表情が無いが、同じだという事は容易に想像が付いた。
美沙は、買物袋から買って来たパンやらハムやらを取り出す。
「そう言えばお夕飯、まだだったでしょ。あんた達、もしかして朝や昼も取ってないんじゃない? ほら、アルはこれ」
美沙は、磨き用オイルをアルの手に押し付ける。
「ウィンリィ推薦のオイル。見かけたから、買って来た」
二人は無言だったが、渋々と食事や鎧磨きを始めた。
食事も終わる頃になって、ふとエドがバスルームの方を振り返った。
「……黒尾の奴、遅くねーか?」
「言われてみれば……」
アルも頷く。シャワーの音は、まだ続いていた。
その音に耳を傾け、美沙はガタと席を立つ。――この音は、おかしい。
慌てて部屋を飛び出した。バスルームの扉を開ける。棚に重ねられたタオルや部屋着。美沙は、トイレの横のカーテンを引き開ける。
無人のバスタブに向かって、シャワーが湯を出し続けていた。
――まさか、あいつ……!
美沙はバスルームを飛び出し、部屋の鍵を検める。鍵は、掛かっていなかった。美沙は確かに、チェーンまでかけたと言うのに。
黒尾が行って、何になる。大人しくしていなければならない。美沙達自身も、エドとアルにその手本を見せるべきだろうに。行ったところで、何も出来ないだろうに。
美沙は部屋へと戻る。
ほんの数秒、美沙が席を空けた間。その間に、部屋は空っぽになっていた。残り少しで放置された肉。蓋が開きっぱなしのオイル。そして、全開にされた窓。
「やられた……!!」
美沙は踵を返すと、一目散に部屋を飛び出して行った。
2011/07/02