明るい陽の光に照らされた通り。それは、何処か懐かしさがあった。立ち並ぶ家々の中には、屋根が瓦の物もある。それらの間に建つ、一軒の家屋。美沙の、実家だ。
 ……家の前に並ぶトラックは何だろう?
「いやああ! 放して!! 嫌よ、いやああああ!!」
 女性の叫び声が聞こえた。両脇を抱えられるようにして出て来た女性。それは美沙の母だった。見るも無残にやつれた姿。
「お母さん」
 発しようとした声は、音にならずに掻き消えた。
 母を引きずるようにして家から出しているのは、親戚の人。少し離れた所で、近所の人々が二、三人固まって母やトラックを眺めていた。
「可哀想にねぇ……娘さんを亡くして、旦那さんも出て行っちゃって、家も手放さなきゃならなくて……そりゃあ壊れるのも無理無いわよ」
「ご主人も薄情よねぇ。娘があんな事になっちゃったのに、仕事仕事で……奥さん一人で探し回って。見てられなかったわよ」
「でも、見つかったところで生きてないでしょう。トラックともろにぶつかったそうじゃない。辛いだろうけど、現実を受け入れるしかないんじゃない。こう言うのもなんだけど、仕事を休んだところで美沙ちゃんが帰ってくる訳でもないんだし」
「でもご主人、三回忌にも顔を出さなかったそうよ」
「えぇ……!? それは……」
 ――三回忌……?
 ふっと情景が移り変わった。一階にある和室だ。その角に置かれた仏壇。部屋は、あの母が放置するとは思えないほど散らかっていた。埃が溜まり洗濯物や食べ物のパッケージや新聞、チラシなど色々な物が散乱する中、仏壇とその正面の一角だけが綺麗に整頓されていた。そこに飾られた写真は、美沙のもの。
「な、に……これ……?」
 やはり声は出ない。
 フッとその仏壇が姿を消す。何も無くなった室内。天井がたわんだかと思うと、どっと床に落ちた。その場にいない美沙は、室内からの映像を見ているくせに何の影響も無い。崩された天井。大きなシャベルが、宙へと離れる。
 美沙はぽっかりと天井に現れた空を見上げる。既に二階は無かった。再度降って来る鋼鉄のシャベル。
 ――やめて。
 やめて。美沙は生きている。帰るのだ。必ず、ここへ帰る。だから、壊さないで。
「それは、本当にお前の帰る場所?」
 声がした。
 美沙が立つのは、真っ白なあの空間。そしてもう一人、その場にいる人物。もう一人の美沙自身。
「その記憶は本当に事実? 彼らには会えないのに、どうやってそれを証明する? あの世界自体、今いる場所とは全く違う。そんな世界、本当にあったのか? お前の知る『常識』は、それを共有する種族が本当にいるのか? いないのならばそれは、お前個人の夢物語に過ぎない。
 お前の記憶や姿は、作られたものではないと断言出来るか?」

 フッと美沙は目を覚ました。真っ暗な室内。もう一つのベッドには、誰もいない。黒尾は両足に怪我をし、同じく怪我をして帰ったエドと共に入院中だ。
 部屋には、美沙一人。
 美沙はベッドを抜け出すと、壁際へと歩み寄った。壁に背を預けて座り込み、コンと拳で壁を叩く。
 しんと静まり返った夜更け。幽かに、鎧の軋む音が聞こえた気がした。
 ややあって、壁の向こうからコツンと叩く音がした。コンコンと二回、美沙も背後の壁を叩いて返す。
 美沙のいたと思っている世界は、本当にあったのだろうか。
 美沙の記憶は本物なのだろうか。
 既存の人間が二つに分かれる事など、あり得るのだろうか。
 答えは出ないまま、夜は更けて行く。





No.16





 夢見は最悪だった。軍とは関わりの無い、マリア・ロス少尉の知人の病院。寝返りを打とうとしたが、足に痛みが走り断念する。
 ――夢なんかじゃない。
 母が親戚に連れられて引越して行った。父とは離婚したらしい。黒尾美沙は死亡扱いとなり、遺骨の無い仏壇が和室に置かれていた。しかしそれはもう過去の事。今はもう、あの和室も美沙の部屋も無い。取り壊されてしまった。
 こちらへやって来てから、幾度と無く見た類のものだった。恐らくあれは、事実。あちらで起こっている現状。
 もう黒尾は帰れないのだろうか。四年前から姿の変わらない身体。実家さえも、崩壊してしまった。父も母も、黒尾を待ってはいない。
「黒尾を……なのかな」
 黒尾美沙は、一人だ。迎えてもらえるのは、黒尾? それとも美沙?
 ――どちらも、私の名前なのに。
 戸を叩く音がして、黒尾は身体を起こす。
「どうぞ」
 入って来たのは、マリアだった。
「お目覚めになったんですね。今、エドワード君も起きたところだったんですよ。
 差し出がましい事かも知れませんが、兄弟二人ともこちらから一喝させていただきました」
 黒尾は身を硬くする。
「あ……いえ。私も、勝手な行動してすみませんでした……」
「本当に。あなただって、彼らを止めるべき立場でしょう。大人のあなたが手本を示さなくてどうするんですか」
「はい……反省してます」
「後日、ヒューズ中佐が見舞いにいらっしゃるそうですよ」
「え……あ……ハイ……」
 更に上の立場からも説教があるのか。無理も無い。立入禁止になっている軍の施設に忍び込んだのだ。そこに何があるのかも、予想していながら。不法侵入で即座にしょっ引かれなかっただけ、運が良かったと言うものだ。
「足の方は、三週間も安静にしていれば完治するそうですよ」
「三週間……長いですね……」
「長めに見てと言う事のようですから。歩くだけならば、一週間もしない内に松葉杖をついて動けるんじゃないかと。入院も数日だけのようですし」
 布団の被さった両足を、黒尾はじっと見つめる。
 てんで歯が立たなかった。そもそも黒尾は、何をしに行ったのか。何が掴めたと言うのか。せっかくラストと会えたと言うのに、完全にあちらのペース。彼らの都合で運良く生かされた。
 エドの警護のため、マリアは再び部屋を出て行く。黒尾は再びベッドに横たわった。
 真理の扉との反発。使える駒を残すための装置。
 ――真理の扉って……あの白い奴の事だよね。
 エドも見たと言っていた荘厳な扉。真っ白な空間。それと反発がある? グラトニーやプライドは、あの場所と何か関係があるのだろうか。
 使える駒を残すのに黒尾が必要だと言う事は、黒尾がいなければ残らないと言う事か。使える駒――要するに、彼らにとって必要であろう者達まで。無差別に大人数が残らなくなるもの。何があるだろう。爆発? ラスト達はテロ組織なのだろうか?
 枕に顔を伏せようとして身体を回した拍子に、膝に痛みが走り黒尾は悶絶する。
 ――駄目だなあ。こう言うのは、エドの分野だよね……。
 黒尾一人で考えたところで、判る気がしない。最年少の天才国家錬金術師様に頼った方が良いだろう。
 先へと進んだエドは、ラストらと出会ったのだろうか。エンヴィーが運んできたのだから、彼とは言葉を交わした可能性が高い。エンヴィーは、黒尾との事をエドに放しただろうか。
 黒尾はゆっくりと目を瞑る。
 もう、隠し立て出来るような状況ではない。エドとアルにも、そして美沙にも話すべきだ。ラストは親友である事を。彼らと戦う事はしたくないと言う意志を。
 とにかく今は、一刻も早く怪我を治す事。エドだって大怪我をしていた。彼が再び完治するまでに、黒尾も治さなければ。

 昼過ぎには、アルと美沙が見舞いにやって来た。黒尾の元気な様子を見て、アルは安堵したようだった。
「良かった。もう歩けなくなったらどうしようかと……でも、大丈夫なんだね。良かった! 本当に良かった!」
 アルは何度もうんうんと頷き、「良かった」「良かった」と繰り返す。
 黒尾はきょとんとアルを見上げる。
「……アル、何かあった?」
 ぴたりと、アルの動きが停止した。一時の間。
 アルの空っぽの瞳が、黒尾を見下ろす。
「何も無いよ。どうして?」
「いや――だって。何か無理してる感じがしたから――」
「そう言えばね、ウィンリィがこっちに来るらしいよ。ほら、兄さんの腕壊れちゃったからさ。僕、兄さんの様子見て来る」
 早口に捲くし立て、アルは部屋を出て行った。まるで逃げ出すかのように。
 黒尾は美沙へと視線を移す。
「何かあったんだね? まさか、エドの容態――」
「エドは大丈夫だよ。確かに怪我は酷いけど……ちゃんと、治るって。ウィンリィに電話しに行ったのもエドだしね」
 美沙は淡々と話す。
 自分自身だ。気付かない筈が無かった。
「あんたも、何かあったの? アルに何があったか、知ってる?」
 質問ではなく、確認だった。
 美沙は、何か知っている。二人はエドの所へ既に行っている。ふとラストの事が脳裏を過ぎったが、直ぐに違うだろうと取り払った。あの態度は、黒尾に対する不審ではない。
 美沙は俯き、言った。
「――私達の……黒尾美沙の記憶って、本物なのかな」
「……は?」
 黒尾は目を瞬く。
 全く同じ顔、服の色だけ違う姿が、ベッドの傍らに座り黒尾を見つめる。
「私達が『自分の過去』だと思っている事は、本当にあった事なの? 黒尾美沙と言う人物は、本当にいたの?」
「何言って……だって、私達は元々この世界じゃなくて錬金術なんて無い二〇一〇年から……」
「その世界が本当にあったって証拠は?」
 黒尾は口を噤む。
 目の前に座る自分の姿をしたモノは、猶も畳み掛けるように続ける。
「私達がここに現れたのは、十月二十四日。エドとアルが人体練成の禁忌を犯したと言っている日。だから、若しかしたら調べるものは同じなんじゃないかって……そう思ってた」
『黒尾は君達の人体錬成に巻き込まれたんじゃないか!! 君も、それに気付いているんだろう!? 君達は自分自身だけでなく、全く関係無い者まで巻き込んだんだ!!』
 脳裏に蘇る声を、黒尾は振り払う。暗い顔で話す美沙を、睨めつけた。
「何が言いたいの?」
「――私達、エドに『作られた』人格である可能性は無い?」
 黒尾は、何も言葉を返せなかった。
 黒尾美沙がこの世界に来たのは、エド達が人体練成を行ったのと同じ日。そのときに見た扉は、エドが見たのと同じ物。
「……それも、いいかもね」
 美沙は、ぽかんと黒尾を見つめる。黒尾はくしゃりと微笑った。
「元の世界なんて全部私の妄想で、作られた人間だった。どんな生まれ方だとしても、人は人でしょ?
 異世界に来ちゃったなんて話より、こんなファンタジックな世界だもん。作られた人だったって方が理に適ってる気がする。どうせ帰る事の出来ない世界なら、妄想だって事にした方が気は楽かもね」
 病室はしんと静まり返る。
 やがて、ぽつりと美沙は言った。
「……そっか……あんたはもう、諦めちゃってるんだね……元の世界に帰る事……」
 黒尾は、何も答えなかった。





 しんと静まり返った室内。消灯時刻を越え、部屋も廊下も闇に包まれている。
『あんたはもう、諦めちゃってるんだね』
 自分の声が、脳裏に蘇る。
 同じ顔、同じ声。動きも考える事も何もかもが同じだった。もう一人の黒尾自身、美沙自身だった。
 黒尾とて、決して諦めた訳ではない。元の世界に帰る方法を完全に諦めているならば、エドやアルの旅に同行する意味も無い。自分が関わっているとそう判断したから、彼らと旅を供にする。諦めている訳ではない……のだけど。
 必ずしも帰りたいかと言えば、黒尾は直ぐに頷く事が出来ない。家族に会いたい。友達に会いたい。だけどここには、エドもアルもウィンリィもピナコもラストもいる。帰る事が彼らとの永遠の別れを示すとすれば……黒尾は、どちらを取るだろう。
 目を閉じる。浮かぶのは、売り地に出された空き地。自宅のあった場所。最後にあった頃はランドセルを背負っていた近所の子供達が、都内の高校の制服を着て通り過ぎて行く。切り替わって、黒尾の通っていた高校。廊下を滑るようにして、視線は校内を巡る。一年生の教室で、担任の姿を見つけた。黒尾のクラスにいるのは、知らない顔ぶれ。三年生にも、後輩の姿さえない。
 ――皆……何処……?
 真っ白な廊下と壁。けれど、辺りは深い闇に包まれているかのようだった。そこに、黒尾美沙の居場所は無い。いた痕跡も無い。

 ふっと黒尾は目を開けた。顔を横に向けると、窓際に人影があった。長い髪、細身の、しかし胸と腰はしっかりと主張されたライン。
「――ラスト?」
 影が動いた。明かりは無い。けれども、声は確かに彼女だった。
「寝てると思っていたわ」
 やや不服そうな声。見つかりたくなかったのかも知れない。黒尾は苦笑する。
「足、三週間もすれば治るって」
「そう」
 ラストは素っ気無く答える。
 沈黙。瞼の裏に見た孤独の闇を彷彿とさせ、黒尾は口を開いた。
「ねえ。あの後、エドに会った?」
「ええ。会ったわよ。本当、勘のいい子ね。あなたの怪我が私達によるものなんじゃないかって、直ぐに気付いたわ」
「……」
「どの道彼の口から聞くでしょうから、話すけど」
 そう言いおいて、ラストは続ける。
「彼にも同じように警告したわ。あなた達は生かされている身。無意味な詮索は止める事ね」
 何度も聞いた言葉。何度言われようと、大人しく頷く気など無い。
 だから、何も聞かなかったようにさらっと流した。
「ねえ、ラスト。若し自分が作られた存在だったらどうする?」
 ラストの返事はない。人影が若干、首を傾げた。
「自分の立場も、姿も、全部用意されたもので……錬金術とかで、作られたのだとしたら」
「その話……私にとっては、仮定の話にならないわね」
「え?」
「それでも、『生まれた』事には変わりない。私が私である事に変わりはないわ。ただ、その過程が少し違うだけ」
 黒尾はぽかんと闇を見つめる。
「……合理的」
 言われてみれば、そんなものかも知れない。例え作られたのだとしても、だから何だと言うのか。今の自分は、今の自分。それは何者にも否定されない。
 ふっと黒尾の頬が緩む。
「ありがとう、ラスト」
「お礼を言われるほどの事でもないと思うけど……どうもいたしまして」
「相談ついでに、ラスト達が何やってるのか教えてくれないかな?」
「教える訳無いでしょ」
 どさくさに紛れた黒尾の質問は、すっぱりと切り捨てられる。
 廊下の方から、足音が聞こえて来た。扉の下の隙間から、明かりが明滅して見える。手灯りが揺れているのだろう。
 窓際でカチャリと音がして、黒尾は再度そちらを振り返る。ひんやりとした風が頬を撫ぜた。
「行くの?」
「ええ」
「お見舞いありがとう。またね」
 ラストは答えない。無言のまま、窓の閉まる音がした。


Back  Next
「 2人の私 」 目次へ

2011/10/29