彼女は焦っていた。今日は学年末テスト最終日。だと言うのに、まさかの寝坊だ。電車が発車するまで、あと五分。自転車を飛ばして、間に合うかどうかと言ったところ。
先に見える信号の色は、赤。けれど、馬鹿正直に信号に倣っていれば確実に乗り遅れる。これに乗り遅れれば、次の電車は二十分後まで無い。
前から来る車が無い事を確認し、背後からも来ない事を確認する。大丈夫、いつもやっている事だ。ましてや今日は土曜日。車通りも平日に比べて少ない。
もう一度念入りに確認し、ハンドルを右に切る。
と、信号手前の角から大きなトラックが曲がってきた。二つの大通りが交差した、広い曲がり角。重ねて、今日は土曜日。他に車はいない。つまりトラックは、スピードを下げる事無く曲がって来たのだ。
彼女の身体が、自転車ごと宙に浮く。
激しいブレーキ音。自転車が落ちる音。自転車はひしゃげ、タイヤはまだクルクルと回っている。
彼女の身体が地上に落ちて来る事は、無かった。
彼女――黒尾美沙の死体が見つからぬまま、四年の月日が経つ。
No.3
東の果ての駅に、美沙達四人は降り立った。ユースウェル炭鉱。それが、この地の名前だ。『東の終わりの町』とも呼ばれている。
汽車は折り返して発車し、駅を去る。
駅から出た美沙達は、静かな駅前を見回す。人は少なく、活気の無い町。それは、四人の予想に反したものだった。エドがそれを口にする。
と、エドの頭に大きな角材が音を立てて当たった。
「おっと、ごめんよ」
「いてーな、この……!」
「お!!」
角材を抱えているのは、小さな少年だった。エドやアルよりも少し下だろうか。背丈はエドと同じぐらいだ。
少年は、嬉しそうにエドに詰め寄る。
「何? 観光? 何処から来たの? 飯は? 宿は決まってる?」
尋ねている割に、エドが答える間を与えない。
「親父! 客だ!」
「人の話聞けよ!!」
「あー? 何だって、カヤル」
答えたのは、駅の傍に組まれた足場で働く男性だった。
カヤルは大きく手を振り、再度叫ぶ。
「客! 金づる!」
「金づるって何だよ!!」
エドの突込みなど、全く聞いていなかった。
連れて行かれたのは、そこそこの広さがある宿だった。シンプルな木製の建物。表に提げられた看板は、レストランのみとしても経営していると言う事だろうか。
「いや、埃っぽくてすまねぇな。炭鉱の給料が少ないんで、店と二足のワラジって訳よ」
「何言ってんでぇ、親方! その少ない給料を、困ってる奴に直ぐ分けちまう癖によ!」
「奥さんもそりゃ泣くぜ!」
「うるせぇや!!」
口々に言う客に、ホーリングは言い返す。
「文句あんなら、酒代のツケさっさと払え!!」
店に男達の笑い声が響く。
ホーリングの奥さんが、美沙達の座るテーブルの所へと来た。
「えーと、一泊二食の四人分ね」
「いくら?」
「高ぇぞ?」
ニヤリと笑みを浮かべて、ホーリングが口を挟む。
「ご心配無く。結構持ってるから」
ホーリングはすっと四本の指を立てる。
四万……では無かった。
「四十万!」
その額に、流石のエドもずっこける。
「ぼったくりもいいとこじゃねぇかよ!!」
「だから言ったろ、『高い』って。滅多に来ない観光客には、しっかり金を落としてって貰わねぇとな」
「冗談じゃない! 他を当たる!」
「逃がすか、金づる!!」
店を出て行こうとしたエドの頭を、ホーリングの大きな手ががっしりと掴む。
カヤルが苦笑して言った。
「諦めな、兄ちゃん。他所も同じ値段だよ」
美沙二人は、さっと席を立つ。その顔には青い縦線が入っている。
「私達、野宿する……」
エド達が旅に出るまで、美沙達はイーストシティや中央まで行って、バイトなどで生活費を稼いでいた。旅の間も宿泊先で働くなどして、何とか食い繋いでいる。ピナコは金など無くても泊めてやると言ってくれたし、エドも宿代を出してくれると言った。けれどまさか、それに甘える訳にもいかない。ましてやエドは、自分よりも年下だ。
出ようとする二人を、アルが慌てて止める。
「だっ、駄目だよ! 二人だけ野宿なんて! お金なら、兄さんが払うからさ」
「でも、自分達の分だけでも足りるの?」
「……」
財布を確認し、エドは黙りこくる。
「ほら。それじゃ、私達――」
「待て待て待て待て!」
今度はエドまでが、美沙達を止める。
「んな事したら、俺がウィンリィに怒られるだろうが!」
「じゃ、宿代は?」
「……こうなったら、錬金術でこの石ころを金塊に変えて!」
エドはテーブルの足元に座り込み、ひそひそと話す。
「金の錬成は国家錬金術法で禁止されてるでしょ!」
「ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ」
「よしっ。それじゃ私達で周り隠すよ、アル!」
「錬成小さくね。エドの錬成って、いつも派手だから」
「兄さん悪!! 美沙達も流されないでよ!」
エドの周囲を固めようと立ち上がり、輪の中に一人混ざっている子がいる事に気がつく。
カヤルは大声を張り上げた。
「親父! この兄ちゃん、錬金術師だ!!」
途端に、わっと歓声が沸いた。
エドは錬金術でツルハシを直して見せ、店内は一気に歓迎ムードとなった。話によると、ホーリングも昔錬金術をかじる程度に学んでいたらしい。同じ術師のよしみと言う事で、代金もサービスすると言う。
「大まけにまけて、十万」
「まだ高いよっ!!」
けれども、払えないと言う値段ではない。暫くは、エド達とは別行動でバイトと言う事になりそうだが……。
運んできた食事を置き、ホーリングはふと尋ねた。
「そう言や、名前聞いてなかったな」
「あ。そうだっけ。エドワード・エルリック」
名前を聞き、ホーリングの笑顔が固まった。さっと食事が退けられ、エドのナイフとフォークが何も置かれていないテーブルに刺さる。
美沙達は目をパチクリさせ、ホーリングを見上げる。
「錬金術師でエルリックって言ったら、国家錬金術師の?」
一瞬にして客達の空気が変わるのが分かった。
エドは頷く。
「……まあ、一応……」
手を伸ばしたコーヒーが、さっと取り上げられる。
「何なんだよ、一体!」
美沙達は周囲を見て、互いに身を寄せる。客たちが恐ろしい形相で、自分達のテーブルの周りに集まっていた。
反論の間も無く、四人は店から追い出されていた。トランクも、後から投げ出される。
エドは振り返り、ホーリングに叫ぶ。
「こらー!! 俺達ゃ客だぞ!!」
「軍の犬にくれてやる飯も寝床も無いわい!!」
アルがはいっと手を上げる。
「僕は一般人でーす。国家なんたらじゃありませーん」
「おおそうか! よし、入れ!」
「私達も一般人ですーっ」
「お前ら、裏切り者っ!!」
吠え続けるエドには構わず、美沙達は店へと入って行く。
先程までの歓迎ムードは何処へやら、客達のテンションは一気に下がっていた。居心地悪く思いながらも、美沙達は席に着く。
カヤルの話によると、この炭鉱を統括しているヨキという軍人が、随分と金にがめつい男らしい。稼いだ金は中央の高官への賄賂に消え、中尉という官位さえも金で買ったと言う。この炭鉱全体が、ヨキの個人資産。よって、炭鉱で働く者達の給料は少なく、文句を言える相手もいない。
「そこに、国家錬金術師ときたもんだ」
ホーリングは、三人の前に食事を置く。
「『錬金術師よ、大衆の為にあれ』――術師の常識であり、プライドだ。数々の特権と引き換えとは言え、軍事国家に魂売るような奴ぁ、俺は許す事が出来ん」
三人は、ただ黙りこくって彼の話を聞いているしかなかった。
「あれ? 鎧の兄ちゃんと、もう一人の姉ちゃんは?」
隣のテーブルを拭きに来たカヤルが、辺りを見回して尋ねる。アルと美沙は、エドに夕飯を持って行った。宿で出された夕飯。アルの分と、美沙達から少しずつだ。
「鎧のネジが何処かに落ちちゃったみたいで。二人で探しに行ったよ。私は残ったの。皆で出て行って、食い逃げだと思われてもいけないからね」
それで、カヤルは納得したようだった。
「ねぇ、姉ちゃん達はどうしてあの兄ちゃんと一緒にいるの?」
「エドの事?」
「うん、金髪の小さい方」
「彼らはね……私の、命の恩人なんだ」
そう言って、美沙は微笑む。
「私、事故って橋の上から落ちちゃってね……。拾ってくれたのが、アルともう一人、女の子だった。私帰る所無くて生きる気力無くしてたんだけど、頑張るエド見て私も頑張らなきゃって思って。アルがいなければ、私はあのまま死んでいた。エドがいなければ、私は今も生き続けてはいなかった」
「頑張るって、何を?」
「軍の犬になるにも、色々と大変な努力があったって事」
扉の開く音に、美沙とカヤルは背後を振り返った。
入ってきたのは、三人の軍人。横暴な態度。先頭に立つ彼が、ヨキ中尉とやらだろうか。
「相変わらず汚い店だな、ホーリング」
嫌味たっぷりのホーリングの返事をあしらい、ヨキは税金の滞納を指摘する。どうやら、徴収に来たらしい。だが、払える金などもう無い。それを知ると、今度は更に給料を下げるとまで言う。
その言葉に、客達が立ち上がる。カヤルの投げた雑巾が、ヨキの顔に直撃する。
「中尉!! ……っのガキ!!」
ヨキは躊躇する素振りも無く、カヤルの顔を強く叩く。カヤルは吹っ飛び、床に倒れる。傍にいた美沙が、駆け寄った。ホーリングも慌ててカウンターから出て来る。
「子供だからとて、容赦はせんぞ」
ヨキは軽く手を挙げ、背後に従えた軍人に合図する。合図を受けた男が刀を抜くのを見て、美沙は咄嗟にカヤルを庇うようにして間に入る。
「そこを退け、小娘。見せしめだ」
「殺すほどの事だとは思えませんが」
「馬鹿な奴だ。邪魔をするならば、先に薙ぎ払うまで」
ヨキは頷く。刀が振り上げられる。美沙はぎゅっと硬く目を瞑った。
刀が当たる衝撃は無い。恐る恐る目を開ければ、エドの右腕が美沙を庇うようにして刀を受けていた。機械鎧の腕に当たった刀は、ベキンと音を立てて折れる。
「なっ……なんだ、何処の小僧だ!?」
「通りすがりの小僧です」
エドは堂々とした態度で、店のコーヒーを啜る。恐らく、アル達が持って行った物だろう。
「お前には関係無い、下がっとれ!」
「いや、中尉さんが見えるってんで、挨拶しとこうかなーと」
言いながら、エドはポケットから銀時計を取り出す。
それが何か理解し、ヨキは一気に態度を変えた。銀時計には、大総統紋章と六茫星が刻まれている。それは、国家錬金術師の証だった。
エドはにこやかに応対し、ヨキ達軍の者と共に店を出て行った。
大きな音を立てて扉が閉まり、カヤルが叫ぶ。
「ぐわー! ムカつく!!」
「どっちが?」
「両方!!」
アルの問いに答えたのは、客全員の揃った声だった。
「……起きてる?」
「自分自身なんだから、確認するまでも無いでしょ」
美沙の問いに、黒尾はあっさりと答える。
エドはそのまま、ヨキの所に泊まったらしい。帰っては来なかった。
美沙はぽつりと呟くように言う。
「……だって最近、私と違う事あるから」
「え?」
黒尾は寝返りを打ち、部屋の向かいにあるベッドを見る。美沙は背を向けていた。
予想しない返答だった。今までは、二人で会話をするとまるで自問自答しているかのようだったと言うのに。
「私達が違う事って? 同一人物が二つに分かれたって言うのに、何が違うって言うの」
言いながら、黒尾は何だか奇妙な感覚だった。今までなら、言うまでも無いような言葉。
「……ね。この間、リオールで何処に行ってたの?」
「知り合いを捜しに……」
「知り合いって、誰。私、そんな心当たりいないよ」
黒尾は口を噤む。何かをおっぱじめ様としているラスト。今の段階で、彼女をよく知りもしない美沙に先日の事を話すのは、彼女に妙な先入観を植え付ける事になるのではないだろうか。否、確実にそうなる。自分ならば、話に聞くのみならば敵視する事だろう。だから、美沙も同様の筈だ。
黒尾も美沙も、元々は黒尾美沙と言う一人の人物。姿は全く一緒なのだ。若しも、美沙が一人でラストと出会ったら。そして、ラストと敵対したら。ラストは美沙を、黒尾と勘違いするかも知れない。そうなれば、せっかく再開出来た友人との仲に亀裂が入るかも知れない。
「言えないの? ねぇ。私、最近、あんたが分からないよ……。あんたは誰なの? 私達はもう、同一人物じゃない。そしたら、どちらが本物の黒尾美沙なの? 若し元通り一人になれる日が来ても、その時残るのはどっちなの? もう片方はどうなっちゃうの……?」
二人共黙り込み、暗闇に包まれた部屋はしんと静まり返る。
何も無い暗闇。あるのは、煙のような妙な香りだけ。
――ん?
二人は、同時に飛び起きる。
「火事!?」
火元は何処なのか、音も光も聞こえず見えない。咄嗟に主語を付けて考える。美沙は荷物、黒尾はアルだ。
美沙は自分達の荷物をまとめ、逃げる準備をする。黒尾は真っ直ぐに部屋を出た。臭いは階段の方から。煙もあるのかも知れないが、暗闇で分からない。隣の部屋の扉をドンドンと激しく叩く。
「アル! アル、起きてる!? アル!!」
カチャリと鍵を開ける音がし、扉が開く。
「起きてるも何も、僕は眠る事が――」
「火事だよ! アルは宿泊している人がこの階にいないか、確認して。私は下を確認して来る。臭いで火元は避けれるから。荷物は美沙に任せて。同時に、助けを呼びに行く」
「分かった」
黒尾は袖を伸ばし、鼻と口を覆う。階段の方へ行くにつれ、臭いは強くなっていく。
火元は一階で間違い無い。ホーリング一家は無事だろうか。せめて、彼らの部屋が何処だか分かっていれば。
階下は明るかった。ゆらゆらと揺れる明かりは、扉が開け放された一室から差し込んでいた。尻込みしつつも、部屋の中を覗く。中に火は無かった。煙だけが、上半分に充満している。窓の外が赤く燃えていた。
どうやら火元は、外らしい。自分達の泊まる部屋があったのとは、逆側の一面。だから、明かりも見えなかったのだろう。
黒尾は歩を進める。冷たい石の床を踏みしめ、自分が裸足のままである事に気がついた。
「ホーリングさーん! いますかぁー!? カヤル君ー! 火事ですー!!」
幽かに声が聞こえた。誰か残っているらしい。
「大丈夫ですかーっ!?」
黒尾は声のした方へと走って行く。
辿り着いたのは、夕飯を食べた店部分だった。ここは火が中まで入っており、壁は既に崩れていた。その向こうに、外に集まった人々が見える。バケツを手に手に、火を消そうと懸命になっていた。
「え……外の声って事?」
黒尾は呆然と、外の人々を眺めていた。
2009/04/07