車内には緊迫した空気が流れていた。
周りの様子を気にもかけず、エドは眠り続けている。起こそうにも、下手な事をして犯人達を刺激したくない。
美沙達は、恐々と車内を見回す。銃を持った男達が複数。それぞれ、乗員やら客やらに突きつけている。
その内の一人が、四人の座る座席の傍までやって来た。美沙達は身を硬くする。
男はエドの席の背もたれに腕を置き、呆れたように言う。
「……この状況でよく寝てられんな、ガキ」
無理も無い。今朝まで、ずっとホーリング達と騒いでいたのだ。やがてそのまま眠ってしまったが、その日の内に出発した。あの程度の睡眠では足りないのだろう。
男はライフル銃の先端で、エドの頬を突く。けれどもやはり、エドが起きる様子は無い。
堂々と眠り続けるその態度に、とうとう男は切れた。
「ちっとは人質らしくしねぇか、このチビ!!」
カッとエドが目を覚ます。
四人のいる車両を陣取っていたジャック犯達は、あっと言う間に片付けられる事となった。
No.5
「あの子達だけ行かせて、本当に大丈夫だったんかねぇ……」
「誰か大人も行くべきじゃなかったのかい。あんた、強そうじゃないか」
「馬鹿言うなよ。ここにいる二人以外に、銃持った奴らがあと八人だろ。とてもじゃないが、無理だね」
「でも、鎧の方は兎も角、片方は小さな子供じゃないか。それが一人で行くって言うのに、そのまま行かせるなんて……」
「俺を責めるって言うのか? 男なんて、俺以外にも沢山いるだろう!」
客達は諍いを始め、互いの責任を問う。
美沙達は溜息を吐き、諌めるようにして割って入った。
「落ち着いてください。彼らなら、大丈夫ですから」
「あんた、友達が心配じゃないのかい?」
「彼らなら大丈夫です。――エルリック兄弟、小さい方は国家錬金術師なんです」
そう言って、黒尾は笑みを見せる。
唖然とする客達に背を向け、黒尾は元いた席へと戻る。美沙は既に元通り座っていて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
不思議だ。列車ジャックに遭っていると言うのに、穏やかな時間。恐らくこれは、信頼から来るものなのだろう。あの兄弟を信じているからこそ、何も不安を感じる事無く暢気に流れる景色を楽しんでいられる。
出来れば美沙達もエド達と共に戦いたいところだが、あの二人だけでも十分に足りる。寧ろ、この狭い車内だ。あまり大勢でぞろぞろ行っても、邪魔になってしまう。
美沙達は、汽車の進む先へと目を向ける。
この汽車がイーストシティの駅に着く頃には、もう片が付いている事だろう。
――イーストシティ……か。
数少ない知り合いのいる町。この世界に来て間もない頃、彼には世話になった。地獄耳の彼の事だ。恐らく、既にこの事件の事も彼の耳には届いているのだろう。
旅に出る前、美沙達は一時期セントラルへと出稼ぎに行っていた。その仕事先を紹介してくれたのが、彼――ロイ・マスタングだったのだ。マスタングと出会ったのも、エド達のつて。
アルとウィンリィに拾われて、本当に良かった。エドに会えて、本当に良かった。
若しも彼ら三人がいなければ、今ここに、美沙達はいない。きっと冷たい水の中、希望も見出せずに一人空しく死んでいた事だろう。
最後に聞いたのは、激しいブレーキ音。
最後に見たのは、回転する世界。
いつもの日常だった。どうにも寝坊気味で、慌てて駅まで自転車を飛ばして。十分もあれば、駅まで行ける。車のあまり無い町だった。信号無視も、いつもの事。
いつもの風景、いつもの行動。なのに。
目が覚めると、美沙は横たわっていた。最初に見たのは、真っ暗な空。最初、頭を打った所為で視界がおかしくなっているのかと思った。一瞬意識は飛んだが、また直ぐ目を覚ましたのだろうと。
数回瞬きを繰り返し、違和感に気がついた。
視界の端に映るガス灯。ぼんやりと灯りの灯ったそれは、はっきりとした輪郭で美沙の視界に映っている。
そして、あまりにも静かな周囲。交通事故が起こったのだ。信号待ちをしていた人がいた筈だ。全く話し声が聞こえないと言うのは、奇妙では無いだろうか。
美沙はゆっくりと手を動かす。身体に痛みは無い。運良く大した打ち身も無く済んだのかと思ったが、全くと言うのは妙だ。少なくとも、自転車から落ちている。その痛みさえ無い。
道端に寝転がったままと言うのも、落ち着かない。ゆっくりと上体を起こす。
ふと、つい先程の事がフラッシュバックする。
美沙は信号を無視し、横断歩道を渡った。そこへ、車が曲がってきた。宙に浮いた身体。
……美沙が最初に目を覚ましたのは、ここではない。
美沙は強い力に引っ張られていた。周囲は暗闇。何を見る事も出来ず、何を聞く事も出来ない。
ただ、何かが起こっていた。逆巻く世界。循環する世界の理。数多の情報が、一気に頭の中へと流れ込んでくるようだ。
頭が勝ち割れるかと思うほどの情報量。美沙は悲鳴を上げる。
けれどもそれは、声にならなかった。声を出そうにも、上げる術が無い。自分自身の身体が確認出来ない。
それは美沙の許容範囲を超えていた。
――助けて。
暗闇の中、ただ引っ張られ続ける。助けを求めても、他に人なんていない。
このまま狂ってしまうのではないかと思った瞬間、「それ」は唐突に終わった。
美沙は真っ白な空間にいた。何も無い空間。上は何処までも果てしなく、下も足元が無い。宙に浮いているかのようなのに、浮遊感は無い。
目の前には大きな扉があった。細かな模様が刻まれている、荘厳な扉。美沙はきょとんと、その扉を見上げる。扉は、ゆっくりと閉じていく所だった。
美沙の他には、誰もいなかった。
……そこには、「黒尾美沙」しかいなかった。
美沙は隣に立つ人物を見つめ、目を丸くしていた。その人物も、同じように驚いた表情をしている。
二つの悲鳴が迸った。声はどちらも、全く同じもの。
「嫌あああぁぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げ、美沙は後ずさった。
同じようにして、目の前の者も後ずさっている。目の前の者――それは紛れも無い、美沙自身だった。顔つきも、体型も、動作も。
――何!? 何なの? 何が起こったの!!?
美沙は混乱し、向かい側の壁に自分と同じように張り付いている相手を見つめる。
美沙の背にあるのは、煉瓦の壁。道沿いに転々と立っているのは、蛍光灯ではなくガス灯。こんな街、見た事無い。美沙は知らない。
美沙は激しく首を左右に振り、辺りを見回す。目では探しながらも、それが無いであろう事は予想していた。美沙の自転車、美沙をはねたトラック、信号待ちをしていた人々。どんなに辺りを見回そうとも、そこにあるのは見知らぬ外国のような風景ばかり。
「嘘だ……」
美沙は呆然と呟いた。
「嘘でしょ……。ねぇ……そうだ、夢だ。夢だよこれは。起きなきゃ。まだ私、寝てるんだ。起きなくちゃ。だって今日、テストだもん。ほら、起きなきゃ……」
こつん、と自分の頭を殴る。痛みは無い。
「ほら、やっぱ夢だ」
美沙は口に出してそう言い、猶も自らの頭を殴る。
「起きろ……起きろ……起きろ、起きろ、起きろ、起きろ、起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ……!!」
言いながら、いつしか美沙は頭を掻き毟るようにしていた。じんわりとした痛みに気付き、そっと手を下ろす。爪を立ててしまったらしく、僅かな血が指先に付着していた。
「痛い……」
じわっと瞳に涙が浮かぶ。
小さく鈍く痛む頭。起きられない。それは、これが夢では無い事を立証していた。
美沙は、恐々と辺りを見回す。どんなに見回そうとも、そこに美沙の見知った物は何一つ見つけられない。あるのは、肩に掛けていた学校指定のバッグだけ。自転車の籠に入れていたサブバッグと部活の物が入った手提げは、何処にも見当たらなかった。そして……向こう側の通りにいる、自分とよく似た女の子。
美沙は口を真一文字に結び、相手を見ながら立ち上がった。向こうも、同じようにして立ち上がる。
右手を挙げた。向こうも同時に右手を挙げる。
屈伸をする時のように、素早くしゃがんだ。遅れる事無く、向こうもしゃがんでいる。
彼女は、驚愕の表情で美沙を見つめていた。
真似ではない、同時なのだ。容姿にも、違いは見られない。まるで鏡に映したかのように、全てが美沙と同じなのだ。ただ鏡と違う点と言えば、自分が右手を挙げれば相手も右手を挙げると言う事。
「わ、たし……?」
向こうにいるそれを指差し、美沙は震える声で呟いた。それも、同じようにして美沙を指差していた。
――気味が悪い。
美沙はふいと目を背ける。
何にしても、ずっとこうしてここで座り込んでいる訳には行かない。そう思って立ち上がり、途方に暮れた。何処にも行く当てが無いのだ。右も左も分からぬ状態。ここが何処なのか、日本なのかどうかも怪しい。今時ガス灯なんて使っている国、何処にあるのだろうか。
美沙は足元を見つめたまま道路の真ん中まで行き、学校のバッグを拾おうと屈んだ。視界に反対側から伸ばされた手が入る。顔を上げ、驚いて後ずさった。目の前には、同じようにして後ずさった「それ」がいた。
「私が――」
私が持つから。そう言おうとした声は、それの声と重なった。
美沙は口を噤む。声までも、同じ。
「じゃあ――」
じゃあ、貴方が持って。そう言おうとした声までもが重なる。互いに、同じ事を考えているのだ。「それ」が考えている事、次に取ろうとしている行動は、美沙と全く同じなのだ。それを悟り、美沙は固まってしまう。
沈黙の後、美沙はバッグの持ち手の自分に近い方を拾った。それも、同じようにして向こうに近い方を拾う。
こうなっては、一緒に持つしかない。持つと主張しても、譲り合っても、向こうも同じタイミングで同じ事を考えてしまうのだ。「一緒に持とう」など、言う必要は無かった。それも、同じ事を考えるだろう。美沙の予想は当たり、現にそれも持ち手の片方だけを拾った。
ガス灯に照らされた暗い道を、二人の美沙はとぼとぼと歩く。一体、あれからどれだけの時間が経ったのだろう。腹が減っていた。けれども、何処へ行けば食べられるのか、そもそも美沙に食べ物を与えてくれるような所はあるのか、さっぱり分からない。
美沙は、自分の着ている制服を見下ろす。つい先日、衣替えで新しく出したばかりなのに、白い砂埃に汚れてしまった冬服。今日は、学校を無断欠席してしまった。美沙が帰って来なくて、両親はどうしているだろう。学校はどうなっているのだろう。テストを受けられなかった。追試までには、帰れるのだろうか。
色々な不安が心に浮かぶが、けれども答えが出る事は無い。
角を曲がると、そこは大通りのようだった。車通りこそ無いが、道は広く、道路標識のような物も立っている。通りに立ち並ぶ建物も、比較的商店が多い。けれど営業時間は終わっており、どの店もシャッターを下ろし、明かりも消えている。
――今、何時なんだろう……。
ふと思い、美沙は左腕にはめた腕時計を見る。時計の針は、朝の二時過ぎを表していた。だが、ここは果たして日本時間と同じなのだろうか。
「寒……」
呟き、美沙はぶるっと身震いする。隣からも同じような呟き声が聞こえたが、無視を決め込んだ。まだ衣替えしたばかりの季節。ここは日本よりも北に位置するのだろうか、冬服だと言うのに冷たい空気が身を震わせる。
結局その夜、美沙は公園らしき場所に置かれたベンチで眠り夜を明かした。
不安に包まれた浅い眠りを妨げたのは、車の行き交う音と雑踏。昨夜散々驚き尽くしたと言うのに、目を覚まして隣にいるもう一人の自分を見て、思わずびくりと肩が揺れる。
トラックにはねられ、妙な所を通って気がつけば自分がもう一人いた。二人は、互いに相手をじっと見つめる。こうして明るい日の下で見て、改めて全く自分と同じだと知る。眉の整えた形も、つい最近出来たニキビの位置までも、全く一緒なのだ。
薄気味の悪さに、美沙は鳥肌が立った己の腕をさする。それから、足元に置かれた鞄に目を落とした。そして、パッと立ち上がる。
足元に置いた鞄は口が開いていた。横倒しにされ、中身は外へと引っ張り出されている。電車の中で見るつもりでファイルに仕舞わずにおいたプリントは、ぐしゃぐしゃになっていた。
間違いない。何者かに荒らされたのだ。
二人は同時に荷物にしゃがみ込み、中身を確認する。教科書、ノート、プリント、筆箱、携帯電話、ウォークマン、弁当、買ったばかりの飴の袋、リップクリームやソックタッチなどの類に、ハンカチやティッシュ、定期、そして――
「財布……」
財布が無い。中身だけではなく、財布自体が丸ごと無くなっていた。美沙は財布を一番手前に入れてあった。眠っている内に盗む事など、造作も無かっただろう。
どうしよう。金も無いのでは、何処かへ泊まる事も出来ない。食料は当面、弁当と飴で何とかなるだろう。けれど、それだって少量しか無く心許ない。
美沙は飴を二等分に分け、二人で半分ずつ持つ。弁当は朝食として平らげた。この時も互いに同じ物を取ろうとしてなかなか進まなかったが、目を瞑って弁当箱を回転させ自分の方にある半分を食べる事で何とか食べきった。
右も左も分からぬ場所。何かあったとき直ぐに身軽になれるように、分けた飴だけはポケットに入れる。昨夜のように荷物を半分ずつ持ち、二人は立ち上がった。何はともあれ、まずは交番だ。警察にここが何処なのか聞いて、保護を求めよう。若しかしたら、捜索願いが出ているかも知れない。ついでに、財布を盗まれた被害届も出そう。
そう思い、大通りへと出る。往来する人々は、町並みに合ったやや古めかしい服装をしていた。東洋系の顔は見当たらない。車通りも美沙の近所以上に少なく、車のデザインも珍しい物ばかりだ。とても、ここが日本だとは思えなかった。
誰も美沙になど目も留めない。通りを端から端まで見渡したが、交番らしき物は見当たらない。一つ一つの建物を覗きいて歩いたが、やはり交番は見つからなかった。看板に書かれた文字は英語。人々の会話も英語。誰かに尋ねる事も出来やしない。
いつしか、日は高く上っていた。もうお昼頃だろうか。両親は、クラスメイトは、今頃どうしているだろう。
美沙は立ち止まり、途方に暮れる。
「どうしよう……」
声は重なった。全く同じ調子、同じ高さの声。声を出した隣に立つ「それ」を、美沙は振り返る。
「真似しないでよ!」
再び、声が重なる。口を真一文字に結び、美沙を睨みつけてくる「それ」。
ふと、恐ろしい考えが美沙の脳裏に浮かんだ。
――こいつは、私に成り代わるつもりでは無いだろうか。
帰る方法が行き詰った今、隣に立つ自分そっくりの者の存在が、気持ち悪くて仕方が無かった。一体「それ」は、何を考えているのだろう。どう言うつもりなのだろう。何故、こんなものが出来た? 何故、こんな所へ来る事になった?
嫌な考えばかりが、脳裏に浮かぶ。無事、黒尾家に帰宅した娘。けれど、それは自分ではなく、目の前にいる偽者の方だったら。「それ」はまるで美沙と同じ事を考えているかのように、同じ動きを取る。そのように、プログラムされているのかも知れない。けれど若し、突然にそのプログラムが壊れたとしたら。美沙を襲ってきたとしたら。……そう、美沙に成り代わる為に。
美沙は荷物を放り投げ、駆け出していた。教科書やノートなんて、持っていても仕方が無い。寧ろ鞄を持つ事によって「それ」と間近にいなければいけないならば、喜んで放り出す。兎に角、「それ」から離れたかった。もう我慢ならない。気味が悪くて仕方が無い。
息が切れるまで走り続け、美沙は立ち止まった。恐る恐る、背後を振り返る。そのまま左右を見回す。何処にも、もう一人の自分の姿は無かった。
ホッと息を吐き、傍にあったガス灯に持たれかかる。見上げた空は、何処までも青く澄み切っていた。若しも美沙が空を飛べたなら、直ぐにも日本へと家へと帰るのに。けれども当然それは叶わず、見上げた空には飛行機さえも無い。
美沙はハッと視線の高さを戻す。再度、辺りを見回した。一昔前の、西洋のような町並み。通りに立ち並ぶ道路標識や、ガス灯。
「……信号は?」
交番を探して歩き回り、もう一人の自分から逃げようと走り回り、けれど一度も信号や電柱を見かけていない。電柱は、場所によっては景観を守る為に電線を地に埋めるという話を聞いた事がある。けれど、アンテナさえも見つからないとは、どういう事か。立ち並ぶのは近代的な建物。アンテナを隠す必要性など感じられない。
美沙は傍の店のショーウィンドウを覗き込む。その隣も、そのまた向こうの店も。……無い、どの店も無い。
「レジさえ無い……」
一体どういう事か。文明の遅れた地域、西洋古来の文化を大切にする町だとしても、あまりにも違和感がある。
カサリと音がして、美沙は足元に視線を落とす。足元にある新聞紙。英語で書かれた文章は、読む気もしない。けれど美沙は、恐々とそれを拾い上げた。そして目を通し、愕然とする。
新聞紙に書かれた日付。
一九一〇年十月二五日――それは、美沙がいた世界から百年も前の今日の日付だった。
もう、どうしようも無かった。警察に保護を求めたところで――そもそも、この時代のこの国に警察があるのかは疑問だが――美沙が家に帰る事は出来無い。タイム・スリップしたなどと言った所で、誰が信じてくれるだろうか。
太陽が真南を通り過ぎた辺りから、雲行きは段々と怪しくなって行った。鈍色の空の下、昨夜過ごした公園までとぼとぼと帰ってくると、そこにはもう一人の自分がいた。結局、ここ以外に寝起き出来そうな所は見つからなかった。「それ」も、同様だったらしい。
空から落ちてきた雫が、地面に一点の黒い染みを作る。染みは徐々に増えて行き、やがてザーッという音と共に美沙達を打ちつけた。美沙は木の下に逃げる事も無く、呆然と佇んでベンチに座る自分を見つめていた。じっと自分の爪先を見つめたままの「それ」も、動く様子は無い。
見知らぬ世界。言葉も分からず、行く当ても無い。変える方法など分からない。知り合いもいない。
美沙はゆっくりと、一歩踏み出した。冷たい雨に濡れた土を踏みしめ、「それ」の前に立つ。美沙が正面まで来て、「それ」――美沙は、顔を上げた。
憐れな様子だった。絶望に打ちひしがれ、雨に濡れるのも気に留めようとしない。全身雨に濡れ、生気の無い表情で己を見上げる。……自分も、こんな顔をしているのか。
美沙は、そっと手を差し伸べた。彼女は美沙の手を握り、立ち上がる。二人で木の下へと駆け込んだ。流れる涙は、雨と交じり合って分からない。
何故、自分がこんな目に遭わねばならない。いつもと同じ朝だった。何も変わらない。なのに、何故。
「どうして……」
「何で、私が……」
初めて、もう一人の自分と発する言葉が異なった。
「帰りたいよ……」
「私だって帰りたい……どうしたらいいの……」
二人の口から出るのは、問いかけばかり。答える声など無い。二人の声以外に聞こえるのは、降りしきる雨の音ばかり。
一人でこんな中に立っていたら、どれ程恐ろしかっただろう。握った手は、温かかった。
2009/05/05