「縄の材料、要るー?」
「何コレ、水浸し!」
 先頭車両まで来た美沙達は、その光景を見て目をパチクリさせた。
 人質になっていたらしい男性と話していたエドが、こちらを振り返る。アルは、一家の母親らしき人と話していた。
「俺達だけで行くっつったのに、何で来てんだよ!」
 噛み付くように言うエドに、美沙は肩を竦める。
「あんた達の事だから、そろそろ片付いてるだろうと思ってね。大丈夫。万が一終わってなければ、大人しく引っ込むつもりだったから」
「本当かー?」
 エドは美沙が何処からか調達してきた麻を受け取り、疑わしげな目を向ける。
「本当だよ。私達、ちゃーんとあんた達の力信じてるんだから」
「ま。客の方は、小さな子供に任せた事でちょっと揉めてたけど」
「小っさい言うな!!」
 目くじらを立てながらも、エドは両手を合わせる。次いで、その手を麻へ。錬成反応の光と共に、麻は数本の縄へと形を変えた。
 その内の二本を黒尾が拾い上げる。
「それじゃ、私達は後ろの方で伸びてた男達縛ってくるよ」
 そう言って、彼らに背を向けた。





No.6





 飴玉は、二週間もしない内に底をついた。一日目の朝、一食で弁当を平らげてしまった事が悔やまれる。食品店のゴミを漁ってみたりもしたが、ゴミだと思うとどうしても口をつける事が出来なかった。
 軍服を着た者達が巡回に来たので、寝床は毎日変える事にした。ベンチ、建物の間、路地裏、廃墟、日によって様々だった。
 眠る時間も、それぞれに変えた。そこに居ついているのではなく、あたかも昼寝をしているだけかのように見せようとしたりもした。
 端から見れば、どんなにみすぼらしい事だろう。けれど、美沙達に救いの手が差し伸べられる事は一度たりとも無かった。普通、こんなものなのだろう。美沙だって、見知らぬ人が公共の場で眠っていても、げっそりした表情で町を歩いていても、自分の物を分け与えたりなどしない。ましてや、家に連れ帰るなんて決してしない。
 この時代に来てから、一体何日たったのだろうか。数える事さえも億劫になっていた。
「お腹空いた……」
「私だって一緒だよ……。私に言ったって、何も出来ないよ……」
「分かってる……」
 力無く言って、片方は立ち上がる。
 今日の寝床は、工事中のまま放置されている建物だった。まだガラスのはまっていない窓の外では、空が白々と明けようとしている。
 大きく伸びをし、傍らの自分を見下ろす。目が合い、彼女も立ち上がった。
 足取りは重い。けれどまだ歩ける。ここは「いてはいけない場所」だ。見つかるのは怖かった。早く、何処かへ移動しなければいけない。
 毎日毎日、同じ事の繰り返し。ふらふらと町を彷徨って、ふらりと何処かに入り込んで、気絶したように眠って。
 何も無くなった今、譲り合いになるような事も無い。どちらの美沙も、自分自身の事だけで精一杯だった。けれど譲り合いは面倒だ。これで逆に良いのかも知れない。

 階段を降り、建物を出た通りには、誰もいなかった。ゆっくりと歩いている内に、日は完全に昇った。ここはどうも大きな街らしく、どんなに朝が早くても日が昇る頃には一人や二人は見かけるものだが……たまたま、朝の遅い地域なのだろうか。
 しんと静まり返った通りを、二人の美沙はふらふらと歩く。
 どの家からも、物音一つ聞こえて来ない。
 静寂を破ったのは、連続したパンパンと言う音だった。
 ――銃声!?
 テレビの中や運動会の競走でしか、聞いた事の無いような音。それが続け様に聞こえたのだ。ここから、そう遠くない。ほんの一つ向こうの通りという程度だろう。
 続いて聞こえて来たのは、何かが崩れるような轟音。
 不安を覚えながらも、ふらつく足で通りを歩く。
 角を曲がり、二人は足を止めた。路地の真ん中に倒れているのは、人間ではないだろうか。全部で四人。皆動かず、そして……彼らの身体の下には、血溜りがある。
 どうしよう。
 何処へ逃げて良いのか分からない。
 背後から、車のブレーキ音が聞こえた。振り返った先にあるのは、やはりテレビや教科書でしか見た事の無いような戦車。美沙は目を見開き、咄嗟に駆け出す。
 空腹に疲労した身体は、思い通りに動かない。もつれる足を必死に動かす。
 美沙は言葉が分からない。巻き込まれれば、不利な事になるのは目に見えている。
 角を曲がる。背後から、幾人もが駆ける足音が聞こえた。振り返る余裕など無い。
 もう一度角を曲がった途端、視界が遮られた。何があったのかと理解する前に、ひょいと身体が担ぎ上げられる。後から走っていた方の美沙は、尻餅を着いていた。そちらの美沙も、同じようにして担ぎ上げられる。
 何が起こったのかも分からぬ内に、美沙二人は肩に担がれ運ばれていた。遠ざかって行く背後では、軍服を着た者達がこちらへ銃を向けていた。撃たれる。そう思い、ぎゅっと目を瞑った。

 担ぎ上げられるのは、決して居心地が良いとは言えなかった。激しい揺れや衝撃。
 美沙達は助けられたのだ。あの時、美沙達が通りに出た途端に銃声が響いた。この者は、後ろを走っていた美沙を突き飛ばし、前を走っていた美沙を庇うようにして抱え銃弾を避けた。
 一瞬でも遅ければ、どちらの美沙も蜂の巣となっていた事だろう。
 どれぐらい経ったろうか。やがて、男がぽつりと呟くように言った。何と言ったのかは分からない。銃声はもう聞こえなくなっていた。
 美沙は恐る恐る目を開く。ようやく地面に下ろされ、辺りをきょろきょろと見回す。何処かの路地裏に立っていた。頭上にある橋の上を、汽車が通り過ぎていく。
 ようやく安全だと分かり、美沙はまじまじと目の前に立つ男を見つめた。額に大きな十字傷、サングラスを掛けたがっしりとした体型の男だった。
「……アメストリス人ではないようだな。シンの者か?」
 そう、英語で言っているように聞こえた。けれど、何では無いと言っているのか分からなかった。聞きなれない単語だ。後の言葉も、聞きなれない。
「アメ……何て?」
 思わず日本語で呟く。
 再び、男は何か言った。だが、今度は美沙の英語力では理解出来なかった。
 美沙達は困惑して顔を見合わせる。言葉が分からなければ、返答も出来ない。
 男は背を向けた。美沙達二人が困惑している間にも、彼は何処かへと立ち去ってしまった。
 ――「ありがとう」って、言いそびれた。
 けれどももう、あの男の姿は何処にも無い。
 美沙達は物陰を出る。恐ろしい世界だ。突然銃撃を浴びる事になるとは思わなかった。一体、何だったのだろう。
 それから、あの複数の死体は何だったのか。
 その光景を思い出し、二人の顔は青ざめる。改めて思い返せば、血溜りには何やら浮いていた。そして、死体は破損していた。あの飛び散っていた物は、若しかすると……。
 ぞっと全身の毛が逆立つのを感じた。一刻も早く、ここから遠ざかりたい。もう嫌だ。
 その時、汽笛の音が鳴り響いた。駅に止まっていた汽車が、ゆっくりと動き出そうとしていた。
 美沙は再び駆ける。幸運にも、辺りに人はいない。
 美沙は汽車へと飛び乗った。元々、運動神経はそこそこ良い方だ。まだ動き出したばかりの汽車に飛び乗るのは、案外楽なものだった。
 車内にあるのは、荷物ばかり。美沙達は崩れ落ちるようにして、その場に座り込んだ。ここ数日、公園の水しか口にしていない。その上、今日はどんなに走り回った事か。
 もう、限界だった。
 そのままゆっくりと、美沙は眠りへと落ちて行った。





 声がする。
 必死に自分の名を呼ぶ声。
 懐かしい声。
 美沙は、ゆっくりと目を開いた。最初に視界に入ったのは、白い天井。次いで飛び込んできたのは、母の顔だった。
「美沙! 美沙、分かる?」
「お母さん……?」
「まったく。これに懲りて、これからはもっと早く起きるんだな」
 窓際には、父がいた。
 美沙は上体を起こし、部屋を見回す。白いシーツ、白い布団。家庭科室などにあるようなタイプの丸椅子。美沙が眠っていたベッドの横にある、点滴。それは美沙の腕まで繋がっていた。
「ここって……」
「病院よ。美沙、トラックにはねられてね。運び込まれたのよ」
「目が覚めたなら、もう俺は仕事に行くぞ。そう何日も空ける訳には行かん。まったく、迷惑な奴だ」
「一番動揺していた人が、何言ってるんですか」
「ど、動揺なんかしてない! 先生も、命に別状は無いと――」
 美沙はクスクスと笑った。
 ……そう、今までのは悪い夢だったのだ。
 大体、車にはねられただけで何故タイム・スリップなんてする。どうして、自分がもう一人現れる。何もかも、おかしな事ばかりだ。現実的に考えて、あり得ない。
「兎に角! 美沙はもう目が覚めたんだから、お前も家に帰って寝ろ。いいな」
「はいはい、分かっていますよ」
 父は病室を出て行った。それを見送り、母は美沙のベッド傍らに置いた椅子に座る。
「気分はどう? 何か食べたい物とかある?」
「突然、食べたい物って言われてもなー……。でも、兎に角沢山食べたい。だって凄くお腹が空いてるんだもん」
 言ってから、美沙は違和感を覚えた。
 ……何か、妙ではないだろうか。
「ね、お母さん……。私って、何日間眠ってたの?」
「丸三日よ」
 三日間。夢は、大分長かったが、そんな物だったのか。けれど、三日も食べていなければ腹が空くのも奇妙な話ではない。それに、凄く身体が重い。これも、腹が減っている為だろうか。
「甘い夢は、そろそろ終わりにしたら? 点滴を打っているのに腹が減ったり、寝ていたのに疲れていたり、おかしな話じゃない」
「え」
 美沙は振り返る。
 けれどそこには、誰もいない。
 気のせいだろうか。変な夢を見た所為で、まだ混乱しているのかも知れない。
 そう思い、顔を戻す。そこに座っていた母は、消えていた。母だけでない。そこにあった棚も、カーテンも、全てが消えていた。あるのは真っ白な空間だけ。
 美沙は、真っ白な空間に立っていた。
「憐れなものだよね。現実逃避がしたくて、こんな馬鹿馬鹿しい夢を見るなんて」
 再び、声がする。
 振り返った所にあったのは、荘厳な扉。そして、その前に立つ美沙。
「ゆ……め……?」
「夢だよ。私はもう、帰れない……二度と」
「……嫌だ。嘘だ」
「嘘なんかじゃない。私もアレを見たんだから、分かってるだろう?」
「アレって……」
 視界が揺れる。目の前に立つのは、自分の姿ではなくなっていっていた。
 誰の姿でもない、ただの人型。
「お前は見たんだ。けれど、正確に言うと通行していない。だから代価も無しに見られる。運が良かったね」
「何が運が良いって言うの? こんな目に遭って! 何を言ってるのか――」
 美沙の言葉は途切れる。
 いつの間にやら、真っ白な世界では無くなっていた。人型も無い。
 声を出す事も、動く事も出来なかった。ただ、見えた。聞こえた。
 正確には、それを「見た」「聞いた」と言って良いのか分からない。その場に、美沙はいないのだから。けれども、分かったのだ。家で、美沙の両親が会話をしていた。

「いい加減にしてくれ。美沙は、はねられたんだ。何人も目撃者がいる」
「けれど、死体は見つかっていません。まだ何処かで動けない状態で、助けを待っているのかも……」
「警察が十分に捜索した! もう、良いじゃないか」
「何が良いって言うんですか。貴方、それでもあの子の父親ですか? 娘の死体が見つからないのに、死んだ事にしようとするなんて!」
「……だったら、お前が自分で捜しに行ったらどうだ!!
ただ警察を責めるばかり、俺に文句を言うばかり。そんなに言うなら、自分で探し出したらいいじゃないか!
だいたい、お前も人を責められる立場か? お前が美沙を早く起こしてさえいれば、事故には遭わなかったかも知れない。だから俺は、お前は美沙を甘やかし過ぎだと言ったんだ」
「美沙が事故に遭ったのは、私の所為だって言うんですか!?」
「別にそんな事は言ってないだろう」
「そう言う意味になるじゃありませんか! ええ、そうでしょうよ! 子供の事は何もかも、私の所為! 家の事も子供の事も、全て私がやるのが当然みたいに!」
「別にそんな事――」
「違うって言えるんですか。実際、子育ても家事も全て私に押し付けてるじゃないですか。働いているのは私も貴方も同じでしょうに!」
「その言い分は何だ! お前の稼ぎが俺と同じだとでも言うのか!? 勤務時間が同じだと言うのか!? お前は、正社員として働いてる訳でもないだろ! 誰が家計を支えてると思ってるんだ!!」
「正社員だったら偉いとでも言うの? そういう偉そうな社員に、派遣がどれだけ振り回されている事か!!」
「大体、美沙の話をしてたんじゃないか」
「ええ。美沙が事故に遭ったのは、私の所為だと言いましたよね」
「だから違うと言ってるだろう!」
「私だけの所為にしないでください。貴方だって、少なからず責任はあるんですから」
「俺の所為だって言うのか? 俺は仕事で忙しいんだ。朝は早かったんだ。何も関係無いだろう!」
「やっぱり私の所為にしてるんじゃないですか!!」 





 暗闇の中、美沙は目を覚ました。
 ガタゴトと揺れる車内。ピストンの音が聞こえる。床は冷たく、肌寒い。あまりの空腹に、腹は音を鳴らす事も無くなった。疲労した身体は、ぐったりと重い。
 もう、起き上がる気力も持ち合わせていなかった。
「お母さん……お父さん……」
 雫は横に流れ、ぽたりと床に落ちる。
 何故、こんな事になったのだろう。美沙が何をしたと言うのだろう。
 どうして、美沙がこんな目に遭わなければならない。
「馬鹿馬鹿しい夢……」
 例え美沙が病室で起きたところで、両親はそこにいないだろう。母は、若しかしたらいるかもしれない。けれどきっと、疲れ切った顔をしている。そして口には出さずとも、面倒事を起こした美沙に腹を立てているだろう。
 そして、父は決して病院になど来ない。休日にでも来れば良い方だ。
 後の部分の夢で見た夫婦喧嘩が、現実の物なのかどうかは分からない。けれど美沙には、現実と思えて仕方が無かった。――否、恐らく現実なのだろう。美沙は、知る事が出来るのだ。
 けれども、それが何だ。
 元の時代の事が分かっても、何の解決にもならない。美沙がそこへ帰る事は出来ないのだから。
 ――あの中に帰って、私はどうしたいんだろ……。
 両親は喧嘩をしていた。どちらも、美沙が事故に遭った責任を相手に押し付けようとしていた。母が早く起こさないから。父が子育てを手伝わないから。
 起きられないのは、美沙自身の問題だ。父も母も、何も関係が無い。信号無視も、美沙が原因。
「でもさ……だからって、こんな目に遭わなきゃいけない事?」
 震えるようなか細い声が重なる。もう一人も、同じように呟いたのだろう。
 溢れ出した涙は止まらない。
 これから、どうしよう。仕事と家事に疲れ、毎日のように愚痴を言う母。朝は早く、夜は遅く、ここ最近美沙と顔さえ合わさない父。必要事項以外、家で話す事は無かった。悩みの相談もしなかった。出来なかった。父はまず会わない。愚痴や疲労ばかりを口にする母に、これ以上負担を掛ける事は出来ない。
 あの家に、美沙の居場所は無かった。
 小さな悩みはあれども、学校に不満は無かった。けれど、充実も無かった。ただ授業を受けて、殆ど帰宅部のような部活が週に一度あって、帰って。毎日、同じ事の繰り返し。空虚な毎日。
 衣食住にありつけない生活なんて、続けたくなかった。一刻も早く抜け出したかった。だから、家に帰りたいと思っていた。
 けれど美沙が行方不明になってまで、あの両親は自分の事しか考えていない。
 ――私は……何処に行けば良いのだろう……。
 ふらりと美沙は立ち上がり、車両を出た。車両の端に立ち、月明かりに照らされた景色を眺める。
 汽車は木々の間を走っていた。線路がある周りだけ、木々が伐採され明るい。
 ふと、視界が開けた。何処かの渓谷。橋の上を、汽車は走っている。
 美沙は壁から手を離した。車両の端を強く蹴る。美沙の身体が宙に投げ出される。
 一瞬の浮遊感。
 そして、美沙は暗闇へと一気に落下して行った。
 ――もう、いいや。
 満月が綺麗な晩だった。


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2009/05/17