皮肉なほど、太陽は眩しく光っている。
足元に聞こえる、流水音。視界は曖昧で、頭には鈍い痛みがある。手足は冷え切っていて、感覚が無い。背中にあるゴロゴロとした感触は、石だろうか。
ざ、と近づく足音が聞こえた。足音は、こちらへと駆けて来る。
やがて、ぼんやりとした視界に、二つの頭が現れた。金髪碧眼の小さな少女と、大きな鎧。
「まだ生きてるよ!」
鎧の中に響くのは、予想外に高い声。
「大丈夫? 何があったの?」
少女が早口で問うが、美沙は答えられない。例え言葉が分かったとしても、答える気など無かった。
だから、ただ目を瞑った。
――何を、今更。
今の今まで、この世界は美沙に何の救いの手も差し伸べ無かった。ボロボロになって、ふらつき、力尽きても、誰も助けてなどくれなかった。
時折見るのは、喧嘩する両親の夢。遺骨の無い、美沙の仏壇。
元の世界も、この世界も、散々美沙を傷つけてきた。なのに、生を諦めた今になって、希望をちらつかせると言うのか。
二人が何か叫んでいる。声は、徐々に遠くなって行く。
頭に何かが宛がわれている気がした。持ち上げられるのを感じた。
色褪せた境遇が動き始めるのを感じながら、美沙は眠りに落ちて行った。
No.8
空は快晴だった。こんな日は、アルとウィンリィに拾われた日の事を思い出す。あの日も、空は青く晴れ渡り、太陽が照り付けていた。
黒尾は、家の戸を叩くエドと、その隣に立つアルに眼を向ける。
ウィンリィの応急処置が無ければ、二人はそのまま失血死していた。アルがいなければ、川岸に打ち上げられたまま見つかる事も、ロックベル家へ運び込まれる事も無かった。
傷の手当を受け、ロックベル家に置いてもらえるようになっても、美沙は生きる気力を失ったままだった。もう、帰れない。言葉も、分からない。そんな世界で、どう生きて行けと言うのか。
そんな時に、機械鎧のリハビリに耐えているエドを見た。見慣れぬ物でも、それが義手義足である事は分かった。その苦痛も、表情から読み取れた。
この小さな子は、事故にでも遭ったのだろうか。何故、ここまで頑張るのだろう。表情を歪める程の苦痛を耐え、生きる必要が、何処にあると言うのだろう。
呆然と眺めていると、アルが廊下を通りかかった。二人は鎧姿の彼を見上げ、声を揃えて一言呟いた。……何故、と。
鎧の彼は、黙したままだった。美沙達が言葉を話せる事に、驚いたのかも知れない。彼は二人を交互に見、それから部屋の中のエドに眼をやった。
そして、鎧の首を外した。
空っぽの胴体に、二人は眼を丸くした。身体が、無い。では、彼はどのようにして話していたのか。どうして動いているのか。他の住人達の彼に対する対応は、人に対する物だった。ロボットと言う訳でも無いようだった。
鎧の頭を戻し、彼は一言、短く簡単な単語でこう言った。
「……僕らには、罪があるから」
「お兄ちゃん達、こんにちは!」
家の戸が開き、最初に顔を覗かせたのは娘のニーナだった。後から、眼鏡のやつれた男が現れる。彼が、ショウ・タッカーだ。
タッカーは飛び出そうとしているアレキサンダーを押さえながら、三人を家の中に招き入れる。
「やあ、こんにちは」
「こんにちは」
「今日も宜しくお願いします」
黒尾は、風呂敷のような大きさの布に包んだ籠を差し出す。
「今日もお世話になります。それで、これ、お口に合うと良いのですが……」
「わぁっ。なあに、これ?」
ニーナは、眼を輝かせて尋ねる。
黒尾はニーナに笑いかけた。
「パンだよ。昨日の晩、作ったの」
そして、タッカーに視線を移す。
「私の国の作り方で作ったんです。だから、この国で売ってる物とは硬さや味が少々異なっていると思います」
「そうか。ありがとう。
黒尾ちゃんは、アメストリスの人じゃないのかい? シンの人かな」
「よく言われますが、違います。もっと、ずっと遠くの国です……」
ずっと、ずっと、遠い国。
帰る方法さえ、分からない程に。
エド、アル、黒尾は、ニーナとアレキサンダーに連れられて真っ直ぐに資料室へと出向いた。
資料室は、昨日本を積み上げていたそのままになっている。黒尾は、手近な所に立ててある本を一冊手に取る。
「今日はちゃんと、片付けの時間も考えて調べなきゃねぇ……」
「別にいいだろ。タッカーさんがそのままにしていい、つったんだから」
「良くない」
今日もただ広げようとするエドに、黒尾は叱るような口調で返す。
暫く黙々と書物を読み続けていた。
どれ程経ったろうか。エドやアルが本棚を隔てた所まで書物を捜して行ってしまった頃、ニーナが犬のアレキサンダーを連れて部屋に入って来た。
「お姉ちゃんが作ったパン、食べて来たの。おいしかったよ、ありがとう!」
ニーナは嬉しそうに言って笑う。
「そっか。喜んでもらえて良かった」
黒尾は穏やかな笑みを浮かべる。
ニーナはきょろきょろと辺りを見回した。
「お兄ちゃん達は?」
「そこの本棚の向こう側にいると思うよ」
黒尾は読んでいた本を閉じると、立ち上がる。移動する黒尾の後を、ニーナはトテトテとついて来る。
本棚の向こうへ回り込んだ所に、エドとアルはいた。
「よっ、お二人さん。どう? 何か見つかった?」
「これと言ったハッキリしたものは……。でも、勉強になる本は沢山あるよ」
答えたのはアル。エドは、返事もせずに本を読み耽っている。
黒尾は山積みの本に目を向けた。
「これ、全部これから読む本?」
「こっち終わった」
短く言って、エドが隣の本の山を前に押し出す。その間も、本から顔は上げない。
「僕もこっちは終わってる」
アルは慌てて立ち上がり、本を棚に片付けていく。
黒尾は、エドが前に出した本の山を抱え上げる。
「これ、何処にあった本?」
「ん」
エドが指差した方を見れば、ごっそりと間が空いていた。どうやら、全てこの場所のようだ。
黒尾はその傍まで本を運ぶと、足元に置いた。二、三冊ずつ、本棚に立てていく。
「はい」
ニーナが次の本を差し出していた。黒尾は「ありがとう」と言って、続けてしまっていく。
「お姉ちゃんのパンって、お兄ちゃん達も食べた事あるの?」
「うん、昨日食べたよ」
アルは本をしまい終え、読みかけの本を拾いながら答える。
「お姉ちゃんのパン、面白いよね。私、黄色いのが付いてた甘いのが好きー」
「メロンパンって言うんだよ。メロンの味なんて、てんでしないけどね。
……はい、片付け終わりっ。ありがとう」
黒尾はそう言って、ニーナの頭を撫でる。
「二年前にお母さんが出て行っちゃったから、手作りのお菓子って久しぶりなの。お母さんも、お菓子いっぱい作ってくれたんだよ」
ニーナはアレキサンダーの所へ戻っていき、アレキサンダーにもたれるようにして座る。
「へぇ、お母さんが二年前に……」
アルは本から顔を上げる。
「うん。『実家に帰っちゃった』って、お父さんが言ってた」
「そっか。こんな広い家にお父さんと二人じゃ、寂しいね」
「ううん、平気! お父さん優しいし、アレキサンダーもいるし!」
そう言って、ニーナはアレキサンダーの首に手を回す。アレキサンダーは、ニーナに頬ずりしている。
楽しそうな笑顔のニーナの表情が、少し曇った。
「でも……お父さん、最近、研究室に閉じこもってばかりで、ちょっと寂しいな」
三人共、黙り込んだ。
黒尾の脳裏に、根っからの仕事人だった父の姿が浮かぶ。休日家にいても、寝ているばかり。休日たまに家族で出かけても、父は一人歩くのが早く、大きな店では必ずはぐれてしまっていた。口数が少なく、近寄り難い雰囲気があった為、会話はあまりした事が無かった。
「……あー。毎日本読んでばっかで、肩凝ったな」
エドは本を閉じ、首を回す。
アルも、本を閉じていた。
「肩こりの解消には適度な運動が効果的だよ、兄さん」
「そーだなー。庭で運動してくっか」
そう言って立ち上がり、アレキサンダーに指を突きつける。
「オラ犬!! 運動がてら、遊んでやる!」
「ニーナも行こ」
黒尾は、座ったままのニーナに笑いかける。
きょとんとしたニーナの顔は、ぱあっと満面の笑みに変わった。
日は西に傾き、空を紅く染めている。
部屋にいるのは、マスタングを始めとするお馴染みの軍部の面々。美沙は、マスタングの前に立ち、手元のメモを読み上げていた。
「――また、錬丹術はエネルギー源を龍脈と言う物に頼っているそうです。大地には気の流れがある、と言うのがシンの考え方みたいです。
それから一体何処までが信憑性のある事実を元にしているのか分かりませんが、気になる文章がありました」
マスタングは座席に座り、机の上で組んだ手に顎を乗せて、美沙の話に耳を傾けている。
「……西から来たと言うその賢者は、不死身だったとか」
「……ほぅ」
マスタングはすっと目を細める。
「大きな事故が何度もありましたが、彼は無傷だったそうです。刺せども貫かれず、打てども潰されず。そう、ありました。理由を尋ねてもその賢者は多くを語らず、ただ一言言いました。
……自分は化け物だ、と」
美沙はノートをパタンと閉じる。
「以上が、本日得た情報です」
「ご苦労。今日の分の報酬だ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、美沙はマスタングの差し出した封筒を受け取る。
マスタングは、傍らで書類の整理をしているリザを振り返った。
「中尉、彼女を外まで送ってやってくれ」
「はい」
彼女は従順に返事をし、美沙を部屋の外へと案内する。
リザの後について歩きながら、美沙は話しかける。
「ありがとうございます。お忙しいでしょうに……」
「いえ、これも仕事ですから」
美沙はエドの連れとして今までにも何度と無く東方司令部に顔を出しているが、あくまでも一般人だ。軍の施設内を、一般人を付き添い無しで歩かせる訳にはいかない。そう言う事だろう。
昨日と同じように、正面玄関まで来た所でリザに別れを告げる。外の階段を下りて行き、公道へ降り立った。
――確か、じゃがいもがまだ残ってたよね……。
真っ直ぐ宿へは帰らず、店の方へと向かいながら今夜の献立を考える。久しぶりに、あっさりした物が欲しい気がする。シチューの残りはもう殆ど無いから、自分達の分は肉じゃがでも作ろうか。
八百屋や肉屋に立ち寄り、必要な食材を買い揃える。
そして宿への帰路に着き、路地裏に入った時だった。通りの向こうに、見覚えのある人物がいるのを見つけた。
額に大きな傷、褐色の肌に黒いサングラスを掛けた男。美沙は、彼が曲がって行った角へと小走りに駆け込む。
「あのっ。お久しぶりです!」
人気の無い狭い通りだ。美沙は、彼の後ろ姿に声を掛けた。
彼は振り返る。口は真一文字に結ばれたまま。サングラスの所為で、表情は分からない。
一時の間の後、彼は言った。
「……喋れるのか」
「はい。難しい言葉はまだ分からないけど、あれから親切な人達に教わりました」
そして、美沙は頭を深々と下げる。
「あの時は、ありがとうございました。私も、もう一人いた彼女も、とても感謝しています」
美沙は上体を起こす。
彼は、黙したままだった。
「あの、お名前聞いてもよろしいでしょうか。私は、美沙と言います。もう一人いたのは、黒尾です」
「名は、無い」
「……え?」
美沙は目を瞬く。
「本当の名は、とうの昔に捨てた」
どうして。
そう尋ねたかったが、何故だか憚られた。美沙のような大して親しくも無い者が聞くには、あまりに込み入った事情があるのではないだろうか。そう思われた。
暫し、沈黙が訪れる。
何か言わなくては。考え、そしてふと思い出した事を尋ねた。
「……そう言えば以前お会いした時に、何か仰ってましたよね。あの時は、言葉が分からなくて……何と仰ってたんですか?」
「……シンの者か、と尋ねた」
彼は思い出すようにやや間を置き、それから答えた。彼は続ける。
「この辺りの者では無いようだからな」
「ああ……よく言われます。でも、違います。私の国は、日本と呼ばれていました」
「聞いた事の無い国だな」
「ええ。私も、今は何処にあるのか分かりません。帰れなくなってしまった」
「……」
ただ、タイム・スリップをしたのだと思っていた。ロックベル家で暮らすようになって、美沙は初めて自分がタイム・スリップ以上に非現実的な境遇に置かれたのだと知った。
錬金術。
物質を別の形へと変化させる、まるで魔法のような技術。それが、この世界には常識として存在している。
美沙も、名前だけならば錬金術という言葉を聞いた事がある。けれども美沙がいたのは、科学の世界。錬金術が実在した例は聞いた事があれども、この世界のような発展は遂げていなかった。――つまりは、ここは美沙がいた所とは全くの異世界という事。
アメストリスと言う国名など、聞いた事が無い。当然だった。美沙のいた世界には、そんな国、存在しなかったのだから。
「その国は……無くなってしまったのか……?」
眼前に立つ男が、呟くように尋ねた。
美沙はきょとんと彼を見上げる。そして、首を振った。
「国はきっと、無くなっていないと思います。だから私は、そこへ帰りたい。家族に、生きてるって知らせたい。
今、私、その為の方法を探して旅をしているんです。私達を拾ってくれた子達と一緒に」
「そうか」
「彼らも、同じ事を調べる為に旅をしていて。目的は違うけれど、私が帰る為の手段と、彼らの追い求めている物が似ているので。それに、あの子達と一緒だと権力使って色んな資料閲覧できますし」
言って、美沙は悪戯っぽく笑う。
「その伝手で軍部の人とも知り合って、働き口の世話もして頂いたんです。マスタング大佐って、イーストシティーだけじゃなくセントラルにも知り合いがいて――」
「マスタング……焔の錬金術師と親しいのか」
「はい。私を拾ってくれた人達の中に、たまたま国家錬金術師がいたんです。と言っても、知り合った時はまだ国家試験は受けていませんでしたが……」
「名は」
「え?」
美沙はきょとんとする。
間髪入れずに尋ねる彼の様子は、やや尋常では無く感じられたのだ。
考え過ぎだろうか。
彼は、美沙の命を助けてくれた恩人だ。変な勘繰りをするのは、失礼と言うものだろう。
そう思い直し、美沙は答えた。
「エドワード・エルリック――鋼の錬金術師ですよ」
「そうか……」
何だろう、この胸騒ぎは。
自分は何か、取り返しの付かない過ちをしてしまったのではないだろうか。不意にそんな気持ちになる。
美沙は、八百屋の紙袋を抱く腕に力を入れる。
「えっと……家、この辺りなんですか? 後日また、黒尾と一緒に伺いたいのですが……」
「否、ここに住んではいない。己れもお前と同じようなものだ。家は持たずに、旅をしている」
「あ……そうですか……」
それでは、どうしよう。言葉しか言えずとも、礼は両方から述べるべきだろう。だが、あまり時間を割かせるのも悪い気がする。
迷っていると、彼が口を開いた。
「……いずれ、また会えるだろう。暫く、この町にいるのか?」
「ええ、まあ……」
美沙は頷いた。
軍部にある資料は読みきらねば気になるし、タッカーの所での資料探しもいまいちピンと来る物は見つかっていないらしい。まだ数日の間は、この町にいる事になるだろう。
何処かで時計台の鐘が、定時を告げる。日は暮れかけ、辺りには薄闇が忍び寄っていた。
「それじゃ、私、彼ら待たせてるのでそろそろ……。あの時は、本当にありがとうございました。貴方がいなかったら、私、死んでいましたから……」
美沙は再び深々と礼をすると、彼に背を向けた。
そして、小走りに宿へと帰って行った。背後の闇の中に佇む男がどのような思いを抱えているかなど、知る由も無かった。
2009/06/14